豊前の国人の反乱

ゆかりの人からの一言

中島敬一

敬一先生写真2 【中島伊予守房直の墓地移転について】
 中島神社の祭典は毎年四月九日に行われ、祭典の後四つの構組それぞれで直会が行われる。
 宮の口構組も、 この直会で次年度の当番四人が選ばれていた。
 この四人一組が行う仕事は①神田の耕作②次年度の祭典や直会の準備③祭典の次の日に行われる、向野の伊予守房直の塚の管理をして頂いている大内氏へのお礼である。
 昭和四十年代までは問題は起こらなかったが、氏子の家庭で若い人が都会に出るようになり、高齢者でようやく田畑を守るような状況になった。
 五十年代には神田の耕作希望者が減り、中島主税氏に売却された。
これを機に四人制を三人制にし、直会の費用の一部を参加者負担にした。
それでも当番一戸当たりの負担は一万円を超え、また、向野への墓参も特に雨天の時などは山頂にあるため高齢者は大変苦労した。
 この頃より、墓地の移転の話が出はじめ、平成二十二年度の直会の席で正式に移転の話が出された。
 八月にアンケート調査を行い、十月の総会において決定された。
総会では、神田の売却金を移転費用に当て、不足分は一戸一万円の負担と寄付金を当てることになった。
 工事は二十二年二月に始め、四月の祭典の時に移転の法要を行うことで決定した。
どうして房直の墓地が向野にあったかは、「中島家の歴史」五十五項にあるように、房直氏奥方が向野の松尾民部方であり、奥平軍に追われて房直は向野に逃れたが、部落の者の内通により、黒田・時枝の連合軍の追手のためこの地で最後となった。
時枝軍は、房直の首を取り庄川原に晒したが、中島家の家来がその庄川原から首を奪還し、西の林墓地に埋葬した。
 私が子どもの頃までは、西の林の北側に高さ一米くらいの土盛りの山があり、あとでこれが首塚であったことを知った。
 しかし、その頃、宗顕寺の先祖の墓地に墓標は建てられていた。
昭和四十五年の農地整理により、西の林墓地の北半分は田にされた。
その時、総代の方々がこの山の所をユンボで深さ一米位まで掘ってみた。
 私も見たが、穴を掘った跡(土が黒くなっていた)はあったが骨らしきものは見当らなかった。
多分、土になったのだろうということになった。
今度の墓地移転においては、宝塔とその下の土地を少し取って移転し、首塚の前に設置するように皆の了解が得られた。
 先祖房直氏も、長い年月を経てようやく首と胴体が一箇所に埋葬されることとなったのである。
この墓地を代々管理してくださったのは大内家の人々である。
 今の大内健一氏は養子であり、そのお父さんも養子である。
お父さんは、大正十年頃、私の父親が北馬城小学校に勤めていた時、生徒として在校していたそうである。
 父が当番で、たまたま墓参したときに始めて知ったそうである。
その当時からするともう百年近くになる。
 それ以前、いつ頃より塚が管理されていたのであろうか。
数百年という、長い長い間、何代にもわたり中島家の塚を管理して頂きました。
 そのご苦労を、氏子の皆さんにかわり、親盡の感謝をこめてお礼を申し上げます。


〔プロフィール〕
昭和