豊前善光寺
宇佐市大字下時枝の善光寺は天徳二年(958)に空也上人が開山したと伝えられ、浄土宗で一光三尊の御霊仏を本尊とする。
寺伝によると上人は衆生普済の大願を発し、信州善光寺に百日間参籠して如来の救命により、本師如来を護持して九州に下り、宇佐八幡宮の託宣により白髪老翁の指導に従って芝浦の地に来て一宇(道場)を作り本師如来を安置した。
一条天皇は勅して永世護持勅願所となし、大内、黒田、細川、小笠原等の帰依浅からず、堂宇の壮麗、境域の広大輪郭の美も優れていたが、兵火に遭い、当時の建物は本堂を残すのみである。
寺伝によると上人は衆生普済の大願を発し、信州善光寺に百日間参籠して如来の救命により、本師如来を護持して九州に下り、宇佐八幡宮の託宣により白髪老翁の指導に従って芝浦の地に来て一宇(道場)を作り本師如来を安置した。
一条天皇は勅して永世護持勅願所となし、大内、黒田、細川、小笠原等の帰依浅からず、堂宇の壮麗、境域の広大輪郭の美も優れていたが、兵火に遭い、当時の建物は本堂を残すのみである。
善光寺三檀越
三壇越(さんだんおつ)とは、領主小笠原氏、中島氏、川部の酒井氏である。
中島秀直、吉直、房直の兄弟三人が善光寺の書院を建立し寄進、供養田として高家村の七反七畝、高拾壱斗を寄進している。
ところが元禄十二年(1699)に高家村が公領になったので、日田代官岡田正太夫より、一旦召し上げられ寺領は取り上げられたが、中島氏が嘆願して、年々高家村御物成の内より玄米五百七斗四升九合を差下され中須賀の倉庫から同寺に納入していた。
この倉庫からの納入は幕末まで続いた。
善光寺では、本尊開扉ごとに三檀家のために、尺角の塔婆木を門前に立て供養している。
その塔婆には弾正忠・壱岐守・伊予守の三人の院号姓名を記し、現在まで供養をい子たったことはないという。
また、本堂建立の際に小笠原・中島・酒井の三家から棟木上げることが定まっているといわれている。
中島秀直、吉直、房直の兄弟三人が善光寺の書院を建立し寄進、供養田として高家村の七反七畝、高拾壱斗を寄進している。
ところが元禄十二年(1699)に高家村が公領になったので、日田代官岡田正太夫より、一旦召し上げられ寺領は取り上げられたが、中島氏が嘆願して、年々高家村御物成の内より玄米五百七斗四升九合を差下され中須賀の倉庫から同寺に納入していた。
この倉庫からの納入は幕末まで続いた。
善光寺では、本尊開扉ごとに三檀家のために、尺角の塔婆木を門前に立て供養している。
その塔婆には弾正忠・壱岐守・伊予守の三人の院号姓名を記し、現在まで供養をい子たったことはないという。
また、本堂建立の際に小笠原・中島・酒井の三家から棟木上げることが定まっているといわれている。
豊前善光寺の位牌
年に一度、先祖祭りのときに開扉される。
左から、壱岐守・伊予守・弾正忠
左から、壱岐守・伊予守・弾正忠
中島氏の氏寺と、善光寺檀越
伊豫守兄弟、素より武骨一偏の野武士とは思われぬが、別に槊を横たえて賦したというような、風流に耽った逸事もない。
何か筆跡もと思うが、一向見附らない。しかし麻生征伐の陣中で一夕、軍議を催した、朧月を踏んで、清水坂を越え成恒の本陣の毘沙門堂に会合し、軍評定がった。評定の事が終わって酒宴となった。
宴たけなわになると、成恒が伝来の八戦の法十勝十敗の奥義を講談すると、赤尾氏も家の七か條を講じた。最後に房直が起って、中島家十か條を講じたとある。
それに庵主の円親法印が諸行無常の理を説き、朝の紅顔夕の白骨、無常の理を弁えるのが武将の習いであると、説いて鎧の袖をしぼらした。時に大友家からは「大友軍用の名酒」と名札を打った酒樽数挺に、高崎鰛数十駄を送り来て、軍をねぎらったので、一軍大に勇気を増した。などの記事が伝わっている。
中島家の十か條とは、如何なるものか知り難いが、武家に一種の家法、また陣法の伝わるは敢えて珍としない。しかし古武士の風習として、武事あるものに文事なき理なし。これを伝えることの出来ぬは遺憾の極みである。
しかし信仰の方面には、房直兄弟も素より芳しい事蹟の伝えるべきものが少ないが、祖父・曽祖父の時代にも段々伝わっている。房直の曽祖父太郎左衛門秀興が、明応七(一四九八)年戊午に氏神山王宮を建立したとあるが、その子の秀助がその業を継ぎ、大永四(一五二四)年甲申十一月十三日、氏神山王宮へ額を献じ(口絵参照)、同大永六(一五二六)年に復氏神再興とあるが、一部の再興であろう。明応七(一四九八)年秀興の建立から、約三十年を経過している所からして、一部修覆と思われる。しかしこの際工事が急には進捗せず、それに秀俊の代となり、享禄三(一五三〇)年庚寅に竣功したとある。して見ると工事に五年を費やしたことになる。父子三代山王宮造営の事に竭しているが、以上は社司方旧記・棟札に明記ある筈である。
宗顕寺は現に中島一統の菩提所であるが、その宗顕寺の縁起を見ると、「応永四(一三九七)年三月大空融化禅師の開山であるが、その後百年計り無住職で大に荒廃していた事がある。
その間に蓮照寺が新たに出来て、当山従来の檀徒は概ねその信徒に転じ、余す所僅かに恒久、奥の一部となり、堂宇も悉く廃頽し、再興に困難を極めている時に、元亀・天正の頃(一五七〇~九二)、中島氏の祖本村に来たり住し、その子孫相分かれ、一は善光寺により、一は当山の檀徒となって、一門大に繁栄した」とある。
当山の開基変遷は知る限りでないが、元亀・天正の頃(一五七〇~九二)に中島氏の祖先来たりて本村に住して檀徒となったとは、甚だ以て無責任の言ではないか。
何の據る所があれば、かかる事をいわれるかしらん中島氏の祖先宜長が延応(一二三九~四〇)の昔、当村に来住したことは、最早公認の史実である。猶当山縁起の動揺を来すべき記事がある。甚だ零碎な文字であったが、中島氏所蔵の旧記中に、「中島伊豫守宗祐、宗顕寺を基立し大融仙空和尚を開山として聘せり」とある。
しかしこれも時代の上の缺陥を持っている。当山縁起の如く、融化禅師が応永(一三九四~一四二八)頃の人であれば、秀祐がこれを招聘するというに、時代が合わぬ。秀祐は則祐ではなきかと思う。
ここに吾人をして、史的評論を下さして貰いたい。中島氏がこの高家において延応(一二三九~四〇)の昔より、治民化育の事に当たっていたとすれば、必ずや氏寺の建立はありそうなものと思う。
氏寺建立は領主の常用手段であったと思う。若し中島氏の勢力において、氏寺を建立したとしたならば、宗顕寺以外に求めるべきものはあるまい。
善光寺の縁起はいうまでもなく、古く空也上人の開基であるが、名族の故を以て、この寺の檀徒たりし事も当然であるが、中島氏程の者、自分の勢力圏内に氏寺を建てるということは、誰でも肯定する問題である。
斯く推論して、宗顕寺の中島氏の開基を是認するの止むを得ざるものである。縁起の改刪は相方の諒解に待つ。古い系図よりも正しい系図が尊い時代となった。
時に万治年中(一六五八~六一)天巌素雪和尚により宗顕寺は中興したとあり、その後また堂宇荒廃したが、寛政五(一七九三)年に十一世瑞音和尚これを再興した。瑞音は号を明峰と称し、実は中島氏であったので、同族と計り堂宇の完成に尽くしたので、その功を追賞して当山の再中興と称している。
善光寺は、九州の古刹である。その三大檀越とは、領主小笠原侯、中島氏、川部の酒井氏である。秀直・吉直・房直の兄弟三人が、かつて善光寺に書院を建立して献じたことがある。
次いで供養田として高家村の内、七段七畝七歩、高拾壹石壹斗を寄進したとある。それが元禄十二(一六九九)年に、当高家村が公領になったので、日田代官岡田庄太夫より、玄米五石七斗四升九合が差し下され、中須賀の御蔵所から善光寺に納入された。この御蔵所からの納入は、幕末まで実行されていた。して見れば中島氏の献納した寺田が、幕末まで保存されていたというわけである。
善光寺では、本尊開扉ごとに三檀越のため、尺木の塔婆木一丈計りの柱を門前に並べ建て供養している筈である。
その塔婆には弾正忠・壹岐守・伊豫守の三人の院号・姓名を記したもので、近世までその供養を廃したことはない筈である。また本堂建立の際、小笠原・中島・酒井の三家から、棟木を上げる事に定まっているという。本堂建立は開基以来のもので、再建したことはない筈であるが、三家より上げる棟木は、最初のもので、爾来は附属塔堂の建立も、同様に棟木を上げたという。
善光寺梵鐘は、名高い鐘で余韻遠く響いて、しかもその余韻に一種の妙音を伝えて、人を善縁に導かしむる供力があるといっているが、それは中島太左衛門政直という人が、宝暦二(一七五二)年に寄進したとある。
鐘銘
豊之前州 宇佐郡高家郷時枝村 梵天山善光寺者 月盖長者満志願之道場也 樓鐘撞破 久?唖不唯緇徒為憂村巷■首以茲為念 募其斡縁再鋳
華鯨而請予来銘予亦不獲止 銘曰
拓提禮楽 洪鐘惟先 蒲牢號饗 覺長夜眠
下震黄地 上徹梵天 囚者忽晃 剣輪不施
降霜豊嶺 催月山邊 不隔遐邇 克結善縁
駐舟遠浦 進農耕田 念佛門發 愚昧入圓
仰願 国家安全 功徳黎民 保寺憶年
正法山下 現住開善雪丹延 謹記
梵天山下現住四十二世 沙門勇譽哲存代 樓鐘亦撞破依之為再鐘鋳料企
富會以資材右之鐘増寸尺志願令成就者也
寶暦二壬申年林鐘吉祥日
??鐘願主清原朝臣
中島太左衛門尉政直
冶工 攝州大坂高津住 大谷相模掾藤原正次
この銘文によれば、旧鐘願主が中島太左衛門尉政直で、これを撞き破ったか
ら、善光寺四十二世勇誉の時代に改鋳したのであるとのこと、宝暦中の政直と いえば、種直の子に当たる人のようである。 氏神山王宮に神殿を建立して、敬神の誠を現した先祖もある。菩提寺に梵鐘 を寄進して、三帰の功徳を積んだ祖先もある。まだしも一門には、一字一石経 塔を建て、願力回向の功徳を積んだ人が三人まである。その一つは菩提所の宗 顕寺の門前にあり、他の一つは中島武直氏邸内にある。十二万六千九百余文字 を、一石に一字を書いて、地に埋めるのであるが、その奇特殊勝なることは、 並大抵ではない。
正面に 此中已有如来全身
裏面に 奉書鶯一字石
右側に 于時 寶永六己丑二十七冥
左側に 清原氏中島喜七郎尉勝直
とある。勝直とは何人もるが、寶永という年代からしえ、伊豫守四代の孫の勝直のようである。数年を隔てて出来たもので、建てた人も年号も確然と記憶しない。
その信仰上の功徳はいざ知らず、その行持報恩の所為に感せずんばあるべからず、ではないか。鶯一石とは、鶯が法華経と鳴くからというので、法華経一石塔という。隠語ではあるまいかと解釈したのである。宗顕寺にあるのは、元文五(一七四〇)年十月、願主伊右衛門入道一應とある。今から二百年程前に出来たものである。
善光寺本堂後側に安置している、兄弟三人の位牌は、写真の通りであるが、しかし没後、何年か経って作ったものである。しかし随分古いものであり、且つ本寺において、頗る待遇してある様に思う。当寺には徳川将軍歴代の位牌もあるが、どれよりも大事に祀られている。従って三氏が当寺に尽くした半面を知ることが出来る。
光源院諦譽粒春秀阿大居士尊儀
裏面 中島弾正忠清原秀直 父秀助之長子也 次男和泉守吉助
三男伊豫守純直
世住本邦高家村 屬大友公之臣 時天下大亂 賊軍數侵
守節不動 防戦破之 公賞其功乃賜感状今尚存焉 慶長九年甲辰二月九日卒行年八十五
光源院吉與助彦巖行阿大居士尊儀
裏面 中島伊豫守清原吉直住當國高家郷世屬大友公之臣海内草
眛 賊徒蜂起守節奮勇戦死軍中 年在知命
永禄六癸亥八月七日 (底 今来吉右門)
光源院眞譽英胤長阿大居士靈儀
裏面 中島伊豫守清原胤直 自先祖大友公之家臣而任當國高家邑焉 天正十七年己丑與黒田甲斐守 戦于向野谿而自害春秋六十四歳 三月三日
銘文やや幼稚に見える。一般に文学のない時代で、無理からぬ事であるが、その年代・年齢の矛盾には少々苦心せざるを得なかった。
本文に断案は下しておいたが、それ以上立ち入ることは出来ぬ。 伊豫守の六十四歳というのは、当時長男鎮直が十一歳で、次男基直の九歳という所から推して、その五十二歳説が父子年齢の関係上に都合がよい。六十四歳とすれば、五十三歳の長子となる。猶五十二歳説は広く記録類に公認されていることは、前述の通りである。暫く五十二歳説を採ることとする。
壹岐由の永禄六(一五六三)年は、どうしても天正七(一五七九)年か天正十三(一五八五)年でなくてはならぬ。弾正忠の天寿説と戦死説も、前陳の通り天寿説に何ら根拠はないようである。従って戦死説を主張したのである。慶長九(一六〇四)年に死んで八十五なれば、永正十六(一五一九)年に生まれたわけである。そして壹岐守が永禄六(一五〇九)年に戦死して、年五十歳であったとすれば、永正元(一五〇四)年生まれとなり、兄弾正忠より十六歳年長となる。
矛盾も甚だしいではないか。知命とは孔子が、「五十にして天命を知る」の故事により、五十歳のことであるが、この故事を知らずして、仮初に書いたとすれば、それまでであるが、尤も信用される系図に、現に四十と明記あり、猶四十としても、永正十(一五一三)年生まれで、兄に長ずる六歳となる。これを天正十三(一五八五)年戦死四十歳とし、伊豫守の天正十七(一五八九)年戦死の五十二歳説をとれば、壹岐守三歳の年長で、頗る都合がよいのである。
計算上の事でない史上の事実に適合するので、これに従わざるを得ぬこととなる。猶天正十三(一五八五)年説は前述の通りである。
位牌などは一門の尤も深く信用しつつあるものを、事実撞着という理由の下に、これを卻くるは如何と思うが、しかし架空な説でない事は、読者即ち御一統に御承知をして戴きたいものである。
*新「中島氏の歴史」の原稿から引用しました。
何か筆跡もと思うが、一向見附らない。しかし麻生征伐の陣中で一夕、軍議を催した、朧月を踏んで、清水坂を越え成恒の本陣の毘沙門堂に会合し、軍評定がった。評定の事が終わって酒宴となった。
宴たけなわになると、成恒が伝来の八戦の法十勝十敗の奥義を講談すると、赤尾氏も家の七か條を講じた。最後に房直が起って、中島家十か條を講じたとある。
それに庵主の円親法印が諸行無常の理を説き、朝の紅顔夕の白骨、無常の理を弁えるのが武将の習いであると、説いて鎧の袖をしぼらした。時に大友家からは「大友軍用の名酒」と名札を打った酒樽数挺に、高崎鰛数十駄を送り来て、軍をねぎらったので、一軍大に勇気を増した。などの記事が伝わっている。
中島家の十か條とは、如何なるものか知り難いが、武家に一種の家法、また陣法の伝わるは敢えて珍としない。しかし古武士の風習として、武事あるものに文事なき理なし。これを伝えることの出来ぬは遺憾の極みである。
しかし信仰の方面には、房直兄弟も素より芳しい事蹟の伝えるべきものが少ないが、祖父・曽祖父の時代にも段々伝わっている。房直の曽祖父太郎左衛門秀興が、明応七(一四九八)年戊午に氏神山王宮を建立したとあるが、その子の秀助がその業を継ぎ、大永四(一五二四)年甲申十一月十三日、氏神山王宮へ額を献じ(口絵参照)、同大永六(一五二六)年に復氏神再興とあるが、一部の再興であろう。明応七(一四九八)年秀興の建立から、約三十年を経過している所からして、一部修覆と思われる。しかしこの際工事が急には進捗せず、それに秀俊の代となり、享禄三(一五三〇)年庚寅に竣功したとある。して見ると工事に五年を費やしたことになる。父子三代山王宮造営の事に竭しているが、以上は社司方旧記・棟札に明記ある筈である。
宗顕寺は現に中島一統の菩提所であるが、その宗顕寺の縁起を見ると、「応永四(一三九七)年三月大空融化禅師の開山であるが、その後百年計り無住職で大に荒廃していた事がある。
その間に蓮照寺が新たに出来て、当山従来の檀徒は概ねその信徒に転じ、余す所僅かに恒久、奥の一部となり、堂宇も悉く廃頽し、再興に困難を極めている時に、元亀・天正の頃(一五七〇~九二)、中島氏の祖本村に来たり住し、その子孫相分かれ、一は善光寺により、一は当山の檀徒となって、一門大に繁栄した」とある。
当山の開基変遷は知る限りでないが、元亀・天正の頃(一五七〇~九二)に中島氏の祖先来たりて本村に住して檀徒となったとは、甚だ以て無責任の言ではないか。
何の據る所があれば、かかる事をいわれるかしらん中島氏の祖先宜長が延応(一二三九~四〇)の昔、当村に来住したことは、最早公認の史実である。猶当山縁起の動揺を来すべき記事がある。甚だ零碎な文字であったが、中島氏所蔵の旧記中に、「中島伊豫守宗祐、宗顕寺を基立し大融仙空和尚を開山として聘せり」とある。
しかしこれも時代の上の缺陥を持っている。当山縁起の如く、融化禅師が応永(一三九四~一四二八)頃の人であれば、秀祐がこれを招聘するというに、時代が合わぬ。秀祐は則祐ではなきかと思う。
ここに吾人をして、史的評論を下さして貰いたい。中島氏がこの高家において延応(一二三九~四〇)の昔より、治民化育の事に当たっていたとすれば、必ずや氏寺の建立はありそうなものと思う。
氏寺建立は領主の常用手段であったと思う。若し中島氏の勢力において、氏寺を建立したとしたならば、宗顕寺以外に求めるべきものはあるまい。
善光寺の縁起はいうまでもなく、古く空也上人の開基であるが、名族の故を以て、この寺の檀徒たりし事も当然であるが、中島氏程の者、自分の勢力圏内に氏寺を建てるということは、誰でも肯定する問題である。
斯く推論して、宗顕寺の中島氏の開基を是認するの止むを得ざるものである。縁起の改刪は相方の諒解に待つ。古い系図よりも正しい系図が尊い時代となった。
時に万治年中(一六五八~六一)天巌素雪和尚により宗顕寺は中興したとあり、その後また堂宇荒廃したが、寛政五(一七九三)年に十一世瑞音和尚これを再興した。瑞音は号を明峰と称し、実は中島氏であったので、同族と計り堂宇の完成に尽くしたので、その功を追賞して当山の再中興と称している。
善光寺は、九州の古刹である。その三大檀越とは、領主小笠原侯、中島氏、川部の酒井氏である。秀直・吉直・房直の兄弟三人が、かつて善光寺に書院を建立して献じたことがある。
次いで供養田として高家村の内、七段七畝七歩、高拾壹石壹斗を寄進したとある。それが元禄十二(一六九九)年に、当高家村が公領になったので、日田代官岡田庄太夫より、玄米五石七斗四升九合が差し下され、中須賀の御蔵所から善光寺に納入された。この御蔵所からの納入は、幕末まで実行されていた。して見れば中島氏の献納した寺田が、幕末まで保存されていたというわけである。
善光寺では、本尊開扉ごとに三檀越のため、尺木の塔婆木一丈計りの柱を門前に並べ建て供養している筈である。
その塔婆には弾正忠・壹岐守・伊豫守の三人の院号・姓名を記したもので、近世までその供養を廃したことはない筈である。また本堂建立の際、小笠原・中島・酒井の三家から、棟木を上げる事に定まっているという。本堂建立は開基以来のもので、再建したことはない筈であるが、三家より上げる棟木は、最初のもので、爾来は附属塔堂の建立も、同様に棟木を上げたという。
善光寺梵鐘は、名高い鐘で余韻遠く響いて、しかもその余韻に一種の妙音を伝えて、人を善縁に導かしむる供力があるといっているが、それは中島太左衛門政直という人が、宝暦二(一七五二)年に寄進したとある。
鐘銘
豊之前州 宇佐郡高家郷時枝村 梵天山善光寺者 月盖長者満志願之道場也 樓鐘撞破 久?唖不唯緇徒為憂村巷■首以茲為念 募其斡縁再鋳
華鯨而請予来銘予亦不獲止 銘曰
拓提禮楽 洪鐘惟先 蒲牢號饗 覺長夜眠
下震黄地 上徹梵天 囚者忽晃 剣輪不施
降霜豊嶺 催月山邊 不隔遐邇 克結善縁
駐舟遠浦 進農耕田 念佛門發 愚昧入圓
仰願 国家安全 功徳黎民 保寺憶年
正法山下 現住開善雪丹延 謹記
梵天山下現住四十二世 沙門勇譽哲存代 樓鐘亦撞破依之為再鐘鋳料企
富會以資材右之鐘増寸尺志願令成就者也
寶暦二壬申年林鐘吉祥日
??鐘願主清原朝臣
中島太左衛門尉政直
冶工 攝州大坂高津住 大谷相模掾藤原正次
この銘文によれば、旧鐘願主が中島太左衛門尉政直で、これを撞き破ったか
ら、善光寺四十二世勇誉の時代に改鋳したのであるとのこと、宝暦中の政直と いえば、種直の子に当たる人のようである。 氏神山王宮に神殿を建立して、敬神の誠を現した先祖もある。菩提寺に梵鐘 を寄進して、三帰の功徳を積んだ祖先もある。まだしも一門には、一字一石経 塔を建て、願力回向の功徳を積んだ人が三人まである。その一つは菩提所の宗 顕寺の門前にあり、他の一つは中島武直氏邸内にある。十二万六千九百余文字 を、一石に一字を書いて、地に埋めるのであるが、その奇特殊勝なることは、 並大抵ではない。
正面に 此中已有如来全身
裏面に 奉書鶯一字石
右側に 于時 寶永六己丑二十七冥
左側に 清原氏中島喜七郎尉勝直
とある。勝直とは何人もるが、寶永という年代からしえ、伊豫守四代の孫の勝直のようである。数年を隔てて出来たもので、建てた人も年号も確然と記憶しない。
その信仰上の功徳はいざ知らず、その行持報恩の所為に感せずんばあるべからず、ではないか。鶯一石とは、鶯が法華経と鳴くからというので、法華経一石塔という。隠語ではあるまいかと解釈したのである。宗顕寺にあるのは、元文五(一七四〇)年十月、願主伊右衛門入道一應とある。今から二百年程前に出来たものである。
善光寺本堂後側に安置している、兄弟三人の位牌は、写真の通りであるが、しかし没後、何年か経って作ったものである。しかし随分古いものであり、且つ本寺において、頗る待遇してある様に思う。当寺には徳川将軍歴代の位牌もあるが、どれよりも大事に祀られている。従って三氏が当寺に尽くした半面を知ることが出来る。
光源院諦譽粒春秀阿大居士尊儀
裏面 中島弾正忠清原秀直 父秀助之長子也 次男和泉守吉助
三男伊豫守純直
世住本邦高家村 屬大友公之臣 時天下大亂 賊軍數侵
守節不動 防戦破之 公賞其功乃賜感状今尚存焉 慶長九年甲辰二月九日卒行年八十五
光源院吉與助彦巖行阿大居士尊儀
裏面 中島伊豫守清原吉直住當國高家郷世屬大友公之臣海内草
眛 賊徒蜂起守節奮勇戦死軍中 年在知命
永禄六癸亥八月七日 (底 今来吉右門)
光源院眞譽英胤長阿大居士靈儀
裏面 中島伊豫守清原胤直 自先祖大友公之家臣而任當國高家邑焉 天正十七年己丑與黒田甲斐守 戦于向野谿而自害春秋六十四歳 三月三日
銘文やや幼稚に見える。一般に文学のない時代で、無理からぬ事であるが、その年代・年齢の矛盾には少々苦心せざるを得なかった。
本文に断案は下しておいたが、それ以上立ち入ることは出来ぬ。 伊豫守の六十四歳というのは、当時長男鎮直が十一歳で、次男基直の九歳という所から推して、その五十二歳説が父子年齢の関係上に都合がよい。六十四歳とすれば、五十三歳の長子となる。猶五十二歳説は広く記録類に公認されていることは、前述の通りである。暫く五十二歳説を採ることとする。
壹岐由の永禄六(一五六三)年は、どうしても天正七(一五七九)年か天正十三(一五八五)年でなくてはならぬ。弾正忠の天寿説と戦死説も、前陳の通り天寿説に何ら根拠はないようである。従って戦死説を主張したのである。慶長九(一六〇四)年に死んで八十五なれば、永正十六(一五一九)年に生まれたわけである。そして壹岐守が永禄六(一五〇九)年に戦死して、年五十歳であったとすれば、永正元(一五〇四)年生まれとなり、兄弾正忠より十六歳年長となる。
矛盾も甚だしいではないか。知命とは孔子が、「五十にして天命を知る」の故事により、五十歳のことであるが、この故事を知らずして、仮初に書いたとすれば、それまでであるが、尤も信用される系図に、現に四十と明記あり、猶四十としても、永正十(一五一三)年生まれで、兄に長ずる六歳となる。これを天正十三(一五八五)年戦死四十歳とし、伊豫守の天正十七(一五八九)年戦死の五十二歳説をとれば、壹岐守三歳の年長で、頗る都合がよいのである。
計算上の事でない史上の事実に適合するので、これに従わざるを得ぬこととなる。猶天正十三(一五八五)年説は前述の通りである。
位牌などは一門の尤も深く信用しつつあるものを、事実撞着という理由の下に、これを卻くるは如何と思うが、しかし架空な説でない事は、読者即ち御一統に御承知をして戴きたいものである。
*新「中島氏の歴史」の原稿から引用しました。