中島氏の城と居館跡

中島氏の城と居館跡

平成26年に高家小学校の建て替え中に、居住跡が見つかり、高家城跡であることが判明しました。高家小学校は高台にありますが、その高台全体がお城の中心であったことは間違いないでしょう。かなり大規模なお城であったようです。運動場南側には堀の跡が見られます。
写真は、教育委員会と私が撮影したものを使用しました。
城跡写真3 調査場所(東側)…黒い土の部分が、昔の溝や柱の跡

城跡写真3 調査場所(西側)…東側に比べて、柱の跡が多い
城跡写真3 発見された土壙(どこう)(土器捨て場)…写真中央の黒い部分
城跡写真3 土壙(どこう)を掘り終えた状況…東側から、椀(わん)や羽(は)釜(がま)が発見された。
左の二つが羽釜、左端が椀
城跡写真3

発見された溝(白線の内側)…多くの土壙(どこう)と重なっているため、輪郭(りんかく)がゆがんでいる

城跡写真3

城跡写真3

城跡写真3
城跡写真3
城跡写真3
城跡写真3
城跡写真3

高家城跡の発掘調査結果

高家城跡について、教育委員会の調査報告です。
高家城跡の発掘調査結果

                宇佐市教育委員会 社会教育課
                文化財係 弘中正芳

調査場所 宇佐市大字東高家 高家小学校
調査期間 平成26年9月16日~
調査理由 高家小学校管理棟の建て替え

遺跡の名前
高家(たけい)城跡(じょうあと)
 在地領主である中島氏の拠点となった場所。
南北朝時代(※1)の永和2(1376)年2月には、高家城で合戦が行われた。
黒田官兵衛孝高が中津城主になった天正15(1587)年頃には、「高家切寄(きりよせ)」と呼ばれた。

見つかった生活の跡、道具
 溝  青磁(せいじ)(※2)、瓦質(がしつ)土器(※3)、などのかけら
 柱穴 瓦質土器のかけら
 土壙(土器捨て場?) 瓦質土器の椀(わん)・羽(は)釜(がま)(※4)など。

※1南北朝時代…鎌倉幕府の滅亡(1333年)から室町幕府の全国統一(1392年)までの約60年間。 足利尊氏を中心とする北朝側と、後(ご)醍醐(だいご)天皇を中心とする南朝側に分かれて、日本各地で 争いが起こった。

※2青磁(せいじ)…青緑や薄い青色の釉薬(うわぐすり)を塗って焼いた中国産の陶磁器(とうじき)。

※3瓦質(がしつ)土器…釉薬(うわぐすり)を塗らずに焼かれた、素焼(すや)きの器。

※4羽(は)釜(がま)…米を炊(た)くために使われた釜(かま)で、羽と呼ばれる鍔(つば)がついているもの。

中島氏の城と居館跡

大地を巻いて攻め寄せる、黒田の旗風になびかぬ者はなかった。なびかぬ義士の伊豫守が、たてこもる心も固き中島城も、今や残月一痕、散り残った花の間に淋しくかかっている。
楼は毀たれ、廊は破られ、春雨空しく里人の袖を濡らし、濠の水は血に染んで、落花を漂わしている。その光景は追憶するだに、惨たるを覚ゆるのみである。
 さて時めいた中島城、三百年の星霜を隔てたる今日、何れの地に如何に構えしか知り難いが、彼の高祖宜長が、我が高家縣に城柵を構えてより、二三百年間、祖先の住まえる館趾、これを巧する。また無用の閑事ではあるまい。
 顧うに初代宜長が、下国当時は、城郭などはない。その城と称するも、事あるに臨み要害の地を擇み、城柵を設けたので、その内に兵を養ったのではない。その矢倉を建て塹壕を廻し、塁壁を構えるが如き、築城式の行われたのは、百数十年の後で、戦国以後の事である。
中島城趾の如き、初代宜長の設けた城柵は、一の屋形であったことを想像する。猶人には盛衰浮沈というがあって、盛時には方十数町の大規模の屋形を構えるが、衰えると一隅に閉居した例は多いので、宜長以後数百年、一定不変のものでなく、盛衰により数々地を換え、居を移したものと思う。
 我が中島城趾など、相応わしい地点が数か所ある。彼の房直の時代は、既に築城法というものがあって、随分大規模のものであった。千余騎を養い、数千騎を引き受けて、合戦した城の趾であるが、赤尾の光岡城趾とか、佐野の土井城趾とは違って、平野の真中により、高台はならされ、山は開かれ、人畜が盛んに繁殖したもので、原形はすっかり毀たれて終わったのである。しかし光岡城趾などで、その規模を推測することができる。
 古来豪族の邸宅に設けたのである。当村の小原・原口は何時の時代かに中島氏でなくとも、高家氏の邸宅を構えたものと思われる。
千葉殿の地、高燥で眺めもよく、殿の字にも意味がありそうな、高家殿に至っては、現に中島城趾と主張するものもある。
鉄道の敷設される前までは、丘陵の状をなしていたが、鉄道に割かれ遺蹟を壊されて終わったが、猶この界隈に塹壕的溝梁も残存している。中島一族もこの辺集まり住んでいる。
古殿は新たに南方に移した結果、古殿と称するようになったものか。堀添は堀に添える地という意味であろう。小園・外園というも、何かの史実を語っているように思われる。
 更に本村の地勢を考えるに、西は伊呂波川の流域で、一帯は近代的地層で、金光・津々見氏の屋形があったが、余り大規模の屋形があったとは思われぬ。
古殿・小園以北は、これまた新開地である。東部山代川の流域も沖積層の地で、現に卑湿である。大雨が至れば、海底となる。しかし殿山というは、御料林であったかもしれぬ。
その南部一帯は、糸口山脈の余勢を受け、脊梁的丘陵をなしている。この丘陵的台地を出でなかったというべきで、尤も中島氏全盛を極めた、房直時代は南は原口・外園から、千葉殿・髙家殿を中心に、北は古殿・小園を一円としてこの丘陵的台地の全部を包含した、大規模の城郭であったと想像するのである。
 『和名抄』でいう、高家郷とは、現在の高家村全円に糸口村をも併せ、長峰の赤尾辺まで包含していた。しかし『和名抄』時代には、一郷に五十戸と定まっていたが、あの初代宜長の来着してからは、中島の一族が大発展をなし、房直時代には千余騎を有したとすれば、現今の高家一村以上発達していたと思うのである。
 その名は随分古いのである。且つ高家郷の名は全国各所にある。その同一文字でありながら読み方が一致していない。播磨・能登・越後では多加屋(たかや)と読み、筑後では多加(たか)枝(え)と呼んでいる。佐渡・飛騨では多喜(たき)枝(え)といって、美濃・常陸では武江(たけえ)と呼んでいる。豊前に限り武井(たきい)というている。しかし皆所の訛りで、如何に読むも妨げなしである。その和泉の高家の高家首(おびと)は、神魂命五世孫、天道根命の後とある。首(おびと)とは随分高貴を現している。我が高家のこの高家首に縁のあるなしは、知る限りでないが、上代において貴族の窟宅であったろうと想わしむるのである。彼の宇佐大宮司公通卿が、平田井堰を築いた後も、我が高家はその恩沢に預からず、僅かに天水を利用し田に灌漑したものである。
雨の神である貴船神社が、水田の上に祀られている。その四貴船社から考えても、高家の地勢は想像がつく。しかし四貴船神社の勧請は応永の頃といえば、足利時代まで水道はなく、天水利用であったかもしれぬ。初代中島宜長がこの地に封ぜられたのは、平田井堰が出来て数十年の後の事である。当時の高家郷は、荒涼たる葦原にあらざれば、狐狸の棲む丘陵であったことを想像する。
この人烟稀疎な地に大城郭を営む理由もない。唯一種牧民官の館舎であったに違いない。土地の開発につれて、漸次官舎の規模を拡張し、遂に伊豫守が千余の郎党を養うべくなったもので、その間に幾変遷あったか分からぬ。この地域こそ確かに城趾なので、ある一地点を頑固に考えて動かぬは甚だ間違ったことと思う。
 さて伊豫守が北豊に雄視時代の城郭は、どんな規模であったかと、想像するにつけ直ぐ吾人の眼に映ずるのは光岡城趾である。しかし建物は今見るわけに行かぬが、その城趾は本丸の趾とも見るべきものが、南北に長く三四町、東西に稍狭く二町計りである。附属建物の周囲にあったことは勿論である。
これからして中島城趾を考えると、千葉殿を中心に高家殿外園まで二の丸は拡がっていて堀添・小園あたりまで、外城は及んでいたものらしい。今の櫓橋が矢倉の所在を果たして示しているかは分からぬ。しかし櫓は戌亥の方向にもあった筈だ。して見れば柿の木あたりに矢倉が設けられたであろう。宮の口は追手口即ち後門ではなかったか。宮の口といい、柿の木の柿は垣の訛りであるという所から、そう二畝や三畝の宅地でなく、随分広大なものであったものと推定する。
 彼の伊呂波川は漸次西岸を浸食して、河が漸次西に寄りつつある。西に迂回した河跡が、ちゃんと認められる。彼の布津部部落も、伊呂波川の吐き出した土砂の沖積した上に築かれた村であると同時に、七百年前、初代宜長の着岸したのは今の布津部ではなく、今の千葉殿あたりではないかと思う。
千葉は船場で船を繋ぐ港の名残ではないか。地勢上からもかく推測される。千葉殿の西北に当たって吹上の浜というもある。浜田浜塚の地名さえある。往昔千葉殿あたりまで、海水湾入していたものであろう。
もし宜長の船繋ぎ場でなくとも、高家氏の時代において千葉の地点が港湾であったろうとは、誰でも首肯が出来ると思う。
 布津部は晩近において、東西から移住者が集まってつくった漁村部落である。その布津部の名は、伊呂波川の土砂吹出から来た名ではないか。元来高家村に附属していたもので、現に下高家の一部を、東布津部といい、中須賀あたりから移住した一族の繁殖したものではなか。今猶中須賀蓮光寺の門徒である。
 今も布津部の吹出の姓があり、また高家に吹出浜の伝説もある。
 頃は天慶三(九四〇)年、我が高家郷吹出浜に、宗像の神御発現ましましたとは、現に三女王神社の縁起である御身躰を吹き上げたから、吹上浦といい、後には吹出浜となり、遂には布津部と転訛したものではないか。記して博雅に供す。これを要するに高家村の発達は地理的に考察すれば、この伊呂波川の恩恵となすと同時に、我が中島氏の祖先たる宜長の将来したもので、中島一族の繁栄は、この高家村発達を促進した、一素因であったことを認めるのである。
*新「中島氏の歴史」の原稿から引用しました。