ゆかりの人からの一言

豊前の国人の反乱

秀吉の九州平定

 天正十四年(一五八六)、豊臣秀吉は大友宗麟の救援要請に応じ、黒田孝高を軍奉公に中国毛利勢を九州に出陣させ、高橋勢の籠もる小倉城を攻略した。この時点で豊前の長野・西郷・山田・広津・仲八屋・宮成などの諸将が降伏している。
同年十一月、苅田松山城に陣替した毛利・黒田・長野・宗像勢二万八千余が出陣し宇留津城(上毛郡椎田)を包囲した。
城主加来来専順入道は高橋勢の香春岳城に人質にとられていたので、加来一族は中国勢の降伏勧告を受け入れず、孤軍奮闘し、まことに悲惨な結果となった。
中国勢は十一月十日、障子岳城を攻略、同月二十四日香春岳城の高橋元種が降伏した。
 天正十五年三月、豊臣秀吉は十六万の軍勢を率いて九州に渡り、二十九日に馬ヶ岳城に入り、田川の岩石城を攻め秋月勢は降伏した。
翌日、三好秀次を大将として宇佐郡に発向す。従う者、黒田孝高、亀井武蔵守等を先として一万余の軍勢、時枝の城に着陣す。此の時に当たって馳せ集る人々には、犬丸民部・福島佐渡守・加来安芸守・成恒越中守・深水伊賀守・宮成左近・中島伊予守・土岐修理允・渡辺石見守・赤尾孫三郎守(以下氏名略)宇佐下毛二郡の士、六十三人来服して、薩州行の先馳に加わり、地理の案内者とぞ成りにける(宇佐軍記)
 三次秀次の軍勢が宇佐郡の時枝城に着陣し、宇佐郡下毛郡の国人の大部分が島津討伐の先駆けとして戦列にくわわっている。島津氏は天正十五年四月二十一日に降伏を申し入れた。
 大友氏は豊臣秀吉に救援要請をするまえに、豊前豊後の大友派に防戦準備の催兵状をだしており、中島氏あてのものもある。

先書如申候其表為使田北左近将監 河野傳兵衛入道差遺候
於干今者 諸口及行候篠格申談急度以乗船 別而可被励忠儀事
願入候 於様体者 去春申含候篠 不能書載候猶口上申候恐々謹言
               十一月四日 義統

                     中嶋彦次郎殿

 彦次郎は房直の諱源次郎のあやまりであろうか。ともかく、海路から来いとしているが、中島氏の海路出陣した記録はみつかっていないが、中島弾正忠秀直・中島伊予守房直が一族を率いても三好軍に加わったとみられる。

国人一揆が起こる

天正十五年五月九州平定、黒田は豊前六郡の領主になり馬ヶ岳城に入り、つづいて宇佐郡の時枝城に移り、七月に黒田孝高は領民に対し「領内仕置の定三条」を発布し指出検地(自己申告的なもの)を命じた。

一、主人、親父に背く者は処罰すること。
一、殺人、盗人、強盗を行い、またその企てある者処罰すること
一、隠田、畝ちがえなどをした者は、同じく処罰すること
 主従の身分秩序、反乱の禁止、治安維持、かくし田の禁止などの領国経営で、密告者には褒賞するとしたものだが、主眼は在地勢力(国人)に対する掟書だった。
 戦国末期には戦闘の規模は拡大し、守護分國の支配を完了した群雄相互間の熾烈な攻防が展開され、専門武士団が形成されていく。そうした過程で全国制覇をなしとげた豊臣秀吉が太閤検地を行い領民統治の仕組みを成立させ、兵農分離策で職能的身分制度を確立し城下町ができていった。
 秀吉の太閤検地は土地制度の一大改革で、それまでの國人の領地権や名主の土地所有を廃止するもので、基本的には武力行使の切り取り、反抗するものは打ち従えて統治せよであった。
 この切り取りの犠牲になったのが豊前の國人層で、そのナンバーワンが宇都宮家である。
つまり、近世大名に転化できなかった宇都宮の挙兵が、多くの豊前の國人層の悲劇を招くことになった。
 一揆とは心を一つにして団結し暴動をおこすことで、百姓の暴動をふるくは土一揆といった。国人は村単位の領地権を確立した軍事力をもつ農村経営者で、その経営単位が一村だけではなく数村にわたる者がいた。こうした国人たち数人をまとめる大国人、さらに国人を被官としてその軍事力を活用する大名がいた。したがって小さい国人は自らの土地を守るために大国人や大名に従い、その擁護によって領主権を保持した。
 秀吉の土地制度の改革・兵農分離策は、それまでの国人の特権をことごとく奪うもので、黒田孝高が豊前の領主になった時に発動された。つまり、国人は領主の座から自動的におり、武士の身分を確保するためには黒田の家来になるか、それがいやなら百姓になるかの道を選ばなくてはならなかった。そのいずれの道をも選ばず一致団結して反抗したのが豊前の国人一揆である。

宇都宮鎮房の抗戦

 天正十五年黒田は豊前六郡の領主になり豊前の残りの二郡は毛利家の所領になり、在地の有力諸家はことごとく他に転封されることになった。
 『ここに城井城主宇都宮鎮房の子息弥三郎朝房、秀吉公へ供奉として今まで仕えける。父鎮房、早速御味方申すべきところ、病気のため、朝房公のみ隋身と所々に成功ありければ、その忠賞として、伊代国今治の城主として、十二万石賜るべしとして、御朱印下されける』(城井軍記実録)
 この記述に対し「陰徳太平記」には『城井、上筑後にて二百町歩宛賜ふ』とある。伊予一国と二百町歩は、あまりにも違いすぎるが、いずれにしても宇都宮鎮房は御朱印を返上している。
 返上の理由を「城井軍記実録」では『先祖が源頼朝より豊前の守護職を賜り、それ以来足利尊氏・同義満の朱印で世々豊前を領し、十八代になり、この度に忠賞とあれば当然当国を賜るべきところ、四国への国替えは納得できない。豊前の国を少しでも賜りたい』と秀吉に申し出たとある。父祖重代の豊前の地への愛着と名門の誇りは、豊臣秀吉の不快を招くこととなった。
 南北朝時代までは宇都宮家は豊前においてゆるぎなき地位を確立していたが、中国の大内義弘が豊前守護職になり、その後豊後の大友氏が豊前への進出を画策、この両者の対立抗争の渦に巻き込まれ、宇都宮一族の結束にかげりを生じた。つまり、戦国大名の覇権争いに巻き込まれ一族は宗家を離反し同族相争うことになった。
 朱印返上は、則く先祖伝来の所領を失ったことになる。「城井軍記実録」では『鎮房は、力、早業、人に勝れたれば』とあり、他の史書にも鎮房を武勇すぐれた剛の者と讃え、戦国武将の片鱗をうかがえる。
 朱印返上は、鎮房の徹底抗戦の覚悟をあらわすものではなかろうか。すなわち新領主黒田孝高に対する宣戦布告といえる。
 豊前は大友の旧領で多くの国人や小給人がいた。宇佐郡の国人には大友派が多く、上毛郡を根拠にした山田氏と下毛郡を根拠とした野仲氏の大国人がいた。こうした小領主で、いちはやく黒田に帰順した者がいたが、快しとしない国人などが多く、宇都宮の挙兵は大きな影響をあたえたことは間違いない。
 天正十五年十月二日、田川郡の赤郷から築城郡の城井谷に帰った宇都宮鎮房が挙兵し乾坤一擲の決戦となった。黒田長政毛利の援軍を加え一万五千騎の大将となって十一月十二日城井谷に攻め入った。合戦の模様は毛利家の吉川の「陰徳太平記」、宇都宮の「城井軍記実録」に詳細に記述されている。
 田川郡の赤郷を出た城井郷に入り、黒田の城代大村助右衛門を追い出し、各要害に陣をとった。黒田長政は驚き、ただちに秀吉に言上し、毛利勢の援軍が到着して黒田勢とあわせ二万三千余騎が城井の城より二里隔てた黒岩山に陣取った。
 地の理を知った宇都宮は城井の峯や谷に伏兵を潜ませ、村人たちの陽動作戦で敵を攪乱するゲリラ網に引っ掛かった黒田・毛利勢は『多勢をもののかずとせず、切所に引き受け険難に追い詰め戦うが、地理不案内なる上に、侮って深入りしてしまい、さしも知謀に長じ武名高い長政も、駆け引きままならず、かくて味方はことごとく討たれなん』(陰徳太平記)の大敗となり、退却する。
 このあと「陰徳太平記」は黒田長政の危機や部将たちの戦死のことを述べている。

上毛・下毛鎮圧される

 黒田長政の血気に逸った城井攻めは惨敗に終わった。
大敗した黒田は、力攻めを止め、城井の萱切山の内の神楽城を固め、宇都宮勢を封鎖した。すでに、下毛郡の最有力国人野仲氏の籠る長岩城を攻略、上毛郡の一揆を鎮圧したが、今度は一揆二波として、籠城組と上毛・下毛の残存国人が集結し蜂起した。集結組の鬼木・山田・八屋・緒方は上毛郡の国人、伊藤田・中尾は下毛郡の国人で、この連合勢力が黒田に帰順した広津氏を攻撃せんとした時、上毛郡の観音原で歴戦の黒田軍団の猛攻を受け、一揆勢は四散し、黒田・毛利勢は下毛原の籠城組の鎮圧に向かった。
 下毛郡の抗戦派は犬丸・福島・加来の三城になった。この三つの城は犬丸川の西岸段丘、通称下毛原台地を占地し、下毛郡と宇佐郡の勢力を境する防衛ラインである。犬丸城は長岩城野仲氏の出城、福島・加来は宇都宮一族深水氏の拠点であったが、大友進出により下毛郡の大友派の拠点に代わり、野仲氏との抗争は、この一帯で繰り返されていた。
 『それより犬丸を取巻き、竹束井楼を以て攻め入り、一揆千五百人討取り、小林新兵衛を使として、首共大阪へ進送せられければ、殿下大きに御感ありけり』(陰徳太平記)
   「竹束井楼」は城攻めの画期的な戦法である。竹をたばねてつないで銃弾や矢を防ぎ、一定間隔に櫓を立て、それを押し立て城に接近する戦法で、加来・福島両城の攻撃にも利用している。犬丸が落城し、首を秀吉に送った黒田長政は秘蔵の馬を褒美にもらった記録もある。
 加来城と福島城は、天正十五年(一五八七)一二月に吉川の軍勢に包囲され、犬丸城を攻略した黒田勢が加わり総攻撃が始まった。加来と福島は共同防衛線を構えている。この両城に吉川の大軍が攻め寄せ、犬丸城を攻略した黒田軍が大貞原・犬丸原から包囲網をしぼり、福島と加来の村落は吉川と黒田の大軍がひしめき合った。そうなれば、『武功の名を飛ばしたる者』加来安芸守・福島佐渡守入道の城主、『家の子郎等巳下に名を顕わしたる兵共多かりけり』の城兵も、城をもちこたえることは時間の問題であろう。城戸(木戸)を開けて、押し出したのは国人の最後の意地で、大軍に押し戻され居館や在家を焼かれ、降伏の道を選んだのは、それ以上の無益な殺傷を避けるためであった。
 降伏の申し出を受け入れ、一二月晦日城を明け渡し、城を出る城兵を一方的に包囲網のなかに包み込み、有無をいわせず殺す常套手段は、皆殺しにする策略にほかならない。仮に、降伏の申し出を拒否した場合は、逃げ道のない城兵は「窮鼠猫を噛む」の例えどおり、死にもの狂いで戦い、寄手の損害も甚大になる。そこのところを心得、「一揆勢は撫ぜ切りにせよ」の秀吉の厳命で、「加来・福島討果、則頭分の首」を大阪に送った。
 「陰徳太平記」の明け渡し後の宗徒皆殺しは、宗徒が宗門の門徒、主だった徒を意味するのかは不明だが、加来・福島八百人となれば、籠城兵の大半と思われ、その記述は冷酷な表現でされ、加来・福島の殺害・獄門は『比勢ひに恐怖して、国中の一揆一人として孝高の下知に背く者無りけり』と「陰徳太平記」で反逆者に対するみせしめの処刑を強調している。

高家城の落城

黒田孝高が豊前の領主になった天正十五年七月に時枝城に入り、有名な「領内仕置の定三条」を発布し領内の経営に乗り出した歴史的な地である。天正十三年(一五八五)十月、中島氏に攻められ敗北した時枝氏は周防に逃れたが、天正十四年の秀吉九州平定の時、いちはやく黒田軍に従い、以来黒田の家臣として国人一揆鎮圧で活躍している。
 宇佐郡で国人一揆に加わったのは、高家城の中島統次(房直)、小倉城の渡辺統政、乙女城の土岐修理允、光岡城の赤尾源三郎、土井城の荻原種親、宇佐神宮の政処惣検校益永宗世、祢宣職辛島氏などであった。

『明くれば天正十六年三月三日、黒田孝高、大軍を率いて宇佐郡田家(高家)の城を攻めけるに此の城には中島伊予守房直立て籠もり、黒田の下知を用いず、特に堅固に構えつつ寄せ手を待ち居りける故、寄り手の大軍、城を取巻き、息をもつかず攻め立てけり、城主房直は士卒下知して、千変万化、秘術を尽くして防ぎ戦いけり。黒田の魁首時枝平太夫が勢、鳥銃激しく撃ちかかれば、城兵数多撃たれ、散々に打ちなされけれども、猶も屈せず堅固に籠城し、城戸を固めて居りけるが、夜に入り密かに城を逃げ出で、十一歳になりける嫡子内蔵助を薩摩へ落し、房直は豊後の椋野に落ち行き、従弟の松尾と云う者を頼みて匿れ居りけるが、松尾心変わりそて、委細を孝高に告げ、即ち孝高より枝平太夫を豊後に遣わし、椋野に於て房直を害したり、孤児内蔵助は豊前静謐の後、故郷に帰り住しけり』(城井軍記実録)

 「城井軍記実録」は宇都宮氏が滅亡してから六十六年経った承応三年甲午(一六五四)に城井の遺臣渡辺左京亮義春が書いたもので、史実はさておき克明な戦記である。高家落城は巻の下「福島・小城・加来・犬丸・池永・田家(高家)落城の事」に記されている。
 また、「宇佐郡記」では『天正十七年三月朔日に黒田長政が三千余騎を率いて、時枝平太夫を先導として、宇佐に向かい先ず中島伊予守統次(房直)を攻める。城中の義兵七百五十、黒田軍が城下に達するや鉄砲を撃ち、城将中島雅楽介等百四十騎が門を開き突出し奮戦し、寄り手の先鋒を破ったが、諸将が死傷し、黒田の兵が城に迫ってきた。
統次はヤグラより指揮するが、城兵はことごとく敗走するを見て、怒り、三人張りの強弓をもって矢を長政に射かける。矢が長政の鎧袖に当り、長政は恐れて退き、諸将をして激しく攻めさせる。統次は出て戦わんとしたが、恒吉縫殿允が大友氏に頼ることを勧め、その夜向野に走り、外戚松尾民部の宅に入る。民部これを黒田に告げ、長政は追手を出して囲んだ。統次は民部の裏切りに怒り、出て戦い十余人を倒し腹を斬り乱槍の間に死ぬ』とある。
 「下毛郡史」もほぼ同じ内容だが、中島弾正忠・中島主殿介・中島源五郎・中島民部允・高家玄蕃允などの一族が登場している。
「宇佐郡記」では、弾正忠秀直は黒田の新手三百余と戦い、井上丸郎左衛門に討たれ、雅楽介は小郡利右衛門に討たれ、玄蕃允は岡田三四郎と戦い深手を負い退いたとある。まことに相手がわかる詳細な実戦弾であり、この記事が弾正忠秀直の戦死の有力な手がかりになっている。
 戦記は、一族の中の雑記や見分記録を言語のまま記録し、さらに作者の心情的な脚色もあり一様ではない。しかし、かかわった人たちが子々孫々に語りつたえようとした史実は誇張、装飾されていようが、ひとつの史実に積み重なった記録であることは間違いない。
 高家城の攻防は宇佐郡一揆勢唯一の籠城戦である。中島氏は城井の宇都宮系列に属しておらず、渡辺・赤尾氏と終始一貫して大友に忠誠をつくした武将である。そうした、中島統次は豪気一徹な人物とみられる。
 「中島氏十五代の栄華も一行の煙と消えぬ」(下毛郡史)
 城を脱出した中島統次(房直)の討手となったのだが、天正十三年に時枝城から逃れた時枝平太夫とは皮肉なめぐり合わせで、時枝は積年の恨みをはらしたといえる。隣同志の両者の抗争は、予測もしない結末となった。
 黒田は時枝城で「領内仕置き三条」を発布し、ただちに中島氏の領地高家村の検地をおこなっている。膝元での新領地による検地は、中島氏を宇佐郡で一番先に標的としたことにほかならない。掟発布に時枝城を選び、高家城攻めの先導に時枝氏を選んだ、黒田長政の真意は不明だが、時枝氏への配慮が浮かびあがってくる。
 高家城を攻略した黒田長政は、それより渡辺氏の籠城する小倉城攻めのため、全軍を二手に分け、糸口原と本行坂より進撃して包囲した。城主渡辺統政は数十騎を率いて、城戸を開いて迎え撃った。長政は軍を退け包囲戦にもちこんだ。統政は事の成り行きを察し自害せんとしたが、山下伝兵衛に勧められ降伏の使者を出した。(下毛郡史)
 宇佐郡の国人一揆は高家城が落城し中島伊予守が自害、益永氏・辛島氏が討たれ、渡辺・土岐・赤尾・荻原氏などは降伏して鎮圧された。

宇都宮氏滅びる

 毛利側の「陰徳太平記」によると、天正十五年十一月二十四日に黒田孝高・長政、吉川広家が相談し使者を宇都宮鎮房のもとに送り『早々に和睦せられ、黒田父子の下知を守られてもっともに候』と和睦を勧めた。
 豊臣秀吉と黒田孝高が謀議した計略にのせられ鎮房は和睦して、黒田長政と鶴姫の婚姻が進められ、黒田父子は馬ヶ岳より中津の城へ移った。
 天正十五年には佐々成政の領地肥後でも国人一揆が続発し鎮圧できず、秀吉は黒田孝高を応援出兵させた。この応援軍に宇都宮朝房が動向を命じられた。
出発に際して朝房は父鎮房に『黒田と和議を結び、婚儀をとりおこなったのに、主眼とする領地をいまだ返還しないのに肥後出兵の命があった。これは秀吉と孝高の姦計である。よろしく今一度兵を挙げて、わが運命を決すべきなり』と再三諌言したが鎮房は聞き入れなかった。
 城井神社の案内板には『・・・黒岩山峯合戦で長政は大敗した。そこで秀吉は孝高と謀り、所領安堵の条件として、長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。天正十六年(一五八八)四月二十日、鎮房は中津城に招かれ、酒宴の席で謀殺され西門の傍に石垣土円墳として埋葬され、のち石祠が建てられた・・・』とある。
 天正十六年四月二十日に宇都宮鎮房を謀殺、二十二日に城井の留守を守る父長房を討ち一族十三人を磔にかけ、二十四日に肥後に行った朝房を討つ。電光石火、まことに段取りどうり計画が実行されている。肥後の朝房を襲ったのが加藤清正の軍勢とは、手回しのよいことで、そこに孝高の事前計画の神髄がみられる。

武将中島氏の栄光

国人一揆は野戦組と籠城組に分かれる。野戦組は上毛郡の観音原で黒田の大軍に包囲殲滅され、籠城組は黒田・吉川の連携作戦で各子個撃破された。
こうした各地の戦闘に城井の宇都宮氏の応援がなされていないのは、黒田の城井封鎖作戦が成功した結果で、池永・大丸・福島・加来・高家の籠城組みは悲惨な結果を迎えた。
歴史には謎が多い。つまり、資料となるべき記録が少ないため、どこが史実でどこがつくりごとか、実と虚の判断が難しい。とくに戦いの敗者は自らの手で焼却している例が多く見られる。
国人一揆の各所での戦いもいくつかの説で混迷している。
高家城の攻防の模様は内容的にはどの資料もほぼ同じといえるが、天正16年と天正17年の違いが見られる。
上毛・下毛一揆鎮圧は天正15年12月で、この両郡の国人たちのほとんどは宇都宮氏を宗家とする勢力で、鎮圧時点には黒田と宇都宮の和議がととのっていた。
宇佐郡の一揆の動向を記録する戦記は少なく、高家城の攻防のみが異彩をはなっている。それと城主が豊後に脱出を図って、追っ手に打たれたのは加来城の加来安芸守統直と同じでともに大友氏の擁護をもとめたとみられ、両城に共通するのが大友派の拠点だったということであろう。 ⇒  作成中

黒田官兵衛の時代と中島氏

*地元の研究家の方の原文をそのまま引用させていただきました。
 『両豊記』所収の「時枝落去の事」によると、次のように記述されている。
  【豊前国宇佐郡時枝領主時枝平大夫鎮継は、兼て毛利に志を通じけるが、天正八(一五八〇)年頃より、佐野親重と心を合せ、中島と合戦数々に及びけるが、同十三年の春、時枝竊に防州へ使を遣し、加勢をこひければ、小早川隆景指図として、内藤某に百五拾餘騎添て時枝に遣し、豊後の通路を塞げり。中島伊豫守安からぬ事におもひ、同名主殿助、吉村兵部丞を先として、百餘騎にて時枝に押寄ければ、時枝には思ひがけない事と云、内藤が軍兵も、只今防州より渡海して、いまだ合戦の用意もせざりければ、甚周章て防戦す。中島が軍兵得たりかしこしと打てかかる。時枝散々に打まけて落用意とみえしかば、中島勢これを見て、一騎ものがさじと切てかかる。されども平大夫は城中より忍び出、防州さして落行ける。伊豫守は一戦に打勝て、首数弐百級討取けれども、鎮継を打もらし、無念にぞ思ひける。頃は天正十三(一五八五)年十月二日の事なり。此事豊府へ注進しければ、義統より宇佐郡司職たるべきよし、中島伊豫守へ感状を賜りけり。  伝云、其後、時枝平大夫は、小早川隆景をたのみ芸州に有しが、天正十五(一五八七)年秀吉公九州征伐の砌、黒田官兵衛孝高につかへ、再び豊州へ立帰る。所々の軍役相つとめ、其後、黒田家筑前へ国替の砌、筑前へ供したりけりとなん。彼時枝が由緒をたづぬるに、先年、大内家当国守護の時、宇佐宮に千六百町寄附あり。義弘、盛見、義興、義隆まで相つづきて同前たり。右の内、千町は益永肥前支配にて、社務と號す。六百町は寺務と號して、山下玄蕃支配なり。然るに山下玄蕃が支配あしき故、社僧中より寺務役を追放す。其跡に山城国八幡、慶安寺が子を呼くだし、寺務役を勤させける。宇佐郡時枝村に住して、時枝大和守と號す。夫より相続いて、平大夫鎮継に至る。大内家、めつ滅の後、弘治二年より大友家に属す。領地時枝?上毛郡の内、鬼の木むらの二ヶ所なり。】
媾如は一時の権宜、彼素より奸策を廻らし、欺瞞しまじき彼である。怨は深し。かかる浅薄な動機によって結ばれた和議、永久に保たれぬは当然である。如何なる誓書も反古同様である。翌天正八(一五八〇)年に、彼は先ず和を破り、襲うて遣って来たではないか。しかし彼が背後に大友方の渡邊あり、津々見ある、彼は不利と見て直に引き返している。中島氏も敢えて追撃もしなかったと見える。されど大勢は刻々と転変しつつあるのである。大友氏には新たに義統が立った。義統は敢えて人傑とはなさぬが、東南の日州耳川の敗績を取り返すべく、西北に向かって翼を伸ばさんとしている。ここにおいて、時枝勢もその運命は傾いて来たのである。
 天正十(一五八二)年、彼の織田信長が本能寺で殺された年の事である。卯月二十四日、大友方の与力、四日市渡邊寄合衆は、田原入道紹忍の指揮で時枝城を攻め、大いに痛手を負わせた。その後また津々見勘左衛門氏に苦しめられている。天正十四(一五八六)年には再度渡邊党に破られている。
 ここにおいて、さすがの時枝鎮継も数度敗戦の屈辱を雪ぎ、中島・渡邊に抗せんには、到底独力では敵わぬと、天正十三(一五八五)年の春三月、竊に諸田左京というを防州に遣わし、援軍を派遣してくれるよう願い出たのである。その要は、
【数年軍功を励み、佐野源左衛門と協力して、近隣の大友勢を打ち従えた が、北に中島あって戦闘を連けているが、実に某の小勢では敵し難く、 願わくば援軍一隊を得て、せめては宇佐郡一円を静謐に帰したい、云々。】
 そこで小早川隆景は直ちに内藤某に精兵二百五十余騎を与え出発させた。房直は逸早くもこれを探知したので、毛利勢の到着を待ち窺い、軍議の未だ熟しないのに乗じ、吉村兵部丞等と、天正十三(一五八五)年十月二日の夜、遂に時枝城を包囲したのである。
 城中では内藤到着匆々、珍客饗応とりどりである。防戦の準備などする段ではない。城内上下大に周章狼狽である。房直が下知して曰く、「兵は偽道である。不意に出でて勝を決せよとは、孫子の金言である、者ども奮戦せよ」と、軍を麾いて突進したのである。当たる者をば悉く切りたてた。時枝勢は先ず敗れて退く、毛利の客兵また土崩潰乱、さすがの内藤も悪戦苦闘に陥り、寄せ手は益々図に乗り進撃、かくして数刻夜も将に明けんとす。城兵は隻影をとめず逃走したのである。味方にも戦死があったろうが、敵の首級二百三十を獲たといえば、その激戦の状も察せらるる。平太夫鎮継は一敗地に塗みれ、復興の見込みもたたぬと見え、開城して海路で防州に走り、小早川隆景に投じたのである。
 鎮継防州にあること二年、天正十五(一五八七)年黒田孝高の軍に従って、 その嚮導となって、宇佐郡に入り、時枝城に迎えたことは、後章に譲る。
 伊豫守房直は克く寡兵を以て、毛利・時枝の連合軍を破った。多年結んで解けなかった、両家の紛擾、否毛利・大友の二大勢力が、遂に中国勢の全滅と共に、豊後方の天下となしたのであるが、これも全く中島伊豫守の功労というべきである。しかし中島房直もこの好敵手を失い、聊か寂莫を感じたに違いない。一先ず宇佐郡の北方もここに小康を得たのである。大友家ではその勲功を賞し、宇佐郡司職というを授け、感状も賜ったが、田原紹忍の感状は次の様である。
   今度此堺無正躰刻、最前以来被励貞心忠意之次第、寔感入候、為其賞高
    家郷之内、全本名之事令扶助候者、知行肝要候、倍粉骨憑入候、恐々謹   言
、      十月廿一日             紹忍
    中島大蔵丞殿
大蔵丞とは房直の事である。田原紹忍からその功を以て、高家郷全部を加増され、この上も粉骨せよということである。この時義統より直接の感状もあった筈だが、これを蔵する人がいない。この時兄弾正忠に大友家の家職から寄せられた感状がある。
  今度最前已来、別而忠意之覚悟無比類候、就中去十八日既於大通寺敵取
  入候刻、其方以辛労被相支候事、誠忠節此事候、何様三人以取合可被加
  御扶持候、為存知候、恐々謹言
、      十月廿一日          岡部宮内入道繁国(花押)
                    波多伊勢入道宗里(花押)
                    田原勘解由亮親次(花押)
       中島弾正忠殿
 伊豫守房直にも同様の感状がある筈と思うが見当たらぬ。弾正忠にも御扶持を加えられたとある。今や中国勢力は傾いて大友方の世となったが、愈々佐野滅亡して、毛利勢は根底から覆されることとなったのである。
作成中 続く