戦国時代
中島宗親足利尊氏に従う
中島宣長から六代、百余年の実績の記録はみつかっていない。
宣長七世の孫が中島宗親で、身の丈七尺の偉丈夫であった。
足利尊氏が建武三年(1336)二月八日に摂津の戦いに敗れ九州に下り、三月に筑前宗像郡に上陸し、北朝は光厳院の院宣をもって兵を集めた。
筑後の大友氏時は筑後豊前の兵を駆り集め尊氏に応じた 。
中島宗親等の宇佐郡の地頭は大友貞宗に率いられ、多々良浜で菊池武敏の郡と戦い勝利をおさめた尊氏は兵を率いて上各した。その軍に中島宗親の一党、津々見、金光の余党が従った。
中島宗親は直参の兵とみられ、康永四年(1345)八月二九日に尊氏が後醍醐天皇の追善供養のため天竜寺を建て、その落慶九曜の随従を命じられている。
応安四年(1371)に将軍義満は今川貞世を九州探題に補し、大内弘世に援軍を命じた。弘世は豊前の刈田に陣所を設けた。
このとき宇佐郡では中島宗親・深見政直・上田道貫・佐田道親・土岐頼実・佐田重次らが馳せ加わり、筑前に入り、菊池武政・子の武朝と戦っている。
中島宗親は永和二年(1367)二月二六日高家城の合戦に、北朝方の九州探題今川了俊の武将筑後御家人都甲三郎四郎に討ち取られた。 当時、中島宗親は宮方(南朝)であったと見られ、高家城で都甲勢と戦って戦死した。
都甲氏は国東部の武士で、このときはじめて高家城での合戦がおこなわれたのである。
また、豊前各地で合戦があり、宮方の広山庄地頭荻原氏の宮熊城も攻められ、宇佐郡の武士たちも北朝・南朝の双方にわかれ戦っていたことがわかり、今川了俊が後藤氏にも高家城の合戦に対する感状を出している。 作成中1
宣長七世の孫が中島宗親で、身の丈七尺の偉丈夫であった。
足利尊氏が建武三年(1336)二月八日に摂津の戦いに敗れ九州に下り、三月に筑前宗像郡に上陸し、北朝は光厳院の院宣をもって兵を集めた。
筑後の大友氏時は筑後豊前の兵を駆り集め尊氏に応じた 。
中島宗親等の宇佐郡の地頭は大友貞宗に率いられ、多々良浜で菊池武敏の郡と戦い勝利をおさめた尊氏は兵を率いて上各した。その軍に中島宗親の一党、津々見、金光の余党が従った。
中島宗親は直参の兵とみられ、康永四年(1345)八月二九日に尊氏が後醍醐天皇の追善供養のため天竜寺を建て、その落慶九曜の随従を命じられている。
応安四年(1371)に将軍義満は今川貞世を九州探題に補し、大内弘世に援軍を命じた。弘世は豊前の刈田に陣所を設けた。
このとき宇佐郡では中島宗親・深見政直・上田道貫・佐田道親・土岐頼実・佐田重次らが馳せ加わり、筑前に入り、菊池武政・子の武朝と戦っている。
中島宗親は永和二年(1367)二月二六日高家城の合戦に、北朝方の九州探題今川了俊の武将筑後御家人都甲三郎四郎に討ち取られた。 当時、中島宗親は宮方(南朝)であったと見られ、高家城で都甲勢と戦って戦死した。
都甲氏は国東部の武士で、このときはじめて高家城での合戦がおこなわれたのである。
また、豊前各地で合戦があり、宮方の広山庄地頭荻原氏の宮熊城も攻められ、宇佐郡の武士たちも北朝・南朝の双方にわかれ戦っていたことがわかり、今川了俊が後藤氏にも高家城の合戦に対する感状を出している。 作成中1
在地領主(国人)
国人は村の経営者で、その領土を守るために戦闘力を必要としたが、小数の一族的な兵力しかなく、必然的に村から集めた。
おそらく二反三反の田畑を知行する武士たちで、日常は耕作に励みみずからの利益を守るため領主の動員に応じ、さらに領主は大名の要請に従い出陣した。
つまり、先祖伝来の領地を守るために一所懸命(一所で懸命になること)になって戦ってきたということであり、隣同士顔見知りの戦いを幾度もくり返している。
公暦二年(1380)に大内義弘が豊前國の守護職になった。
足利幕府が南北両朝勢力の抗争をくりひろげる九州での功績によるもので、義弘は周防と同じ奉行人機構をおき、国人たち(在地領主)の所領安搭や遵行をおこない、九州の大名や国人に大きな影響をあたえた。
南北朝以降、室町・戦国時代に活躍した宇佐郡の武士団を「宇佐郡三十六士・三十六地頭または三十六人衆」といい、郡内各地の領主で「九州諸家盛衰記」によると『これらのともがらは所々に割拠、争論やむ時なかりけり』とある。
かれらは一般的に「国人」と呼ばれ、各地で村単位とも言える領主制を形成し、室町時代になると守護大名の被官になり軍事要具として活躍した。
宇佐郡三十六士のほとんどは、姓名の地に本拠を置く地頭クラスの武士(国人)で、中島氏(高家)の周辺には、時枝氏・荻原氏・佐野氏・赤尾氏・元重氏・麻生氏等がいた。
おそらく二反三反の田畑を知行する武士たちで、日常は耕作に励みみずからの利益を守るため領主の動員に応じ、さらに領主は大名の要請に従い出陣した。
つまり、先祖伝来の領地を守るために一所懸命(一所で懸命になること)になって戦ってきたということであり、隣同士顔見知りの戦いを幾度もくり返している。
公暦二年(1380)に大内義弘が豊前國の守護職になった。
足利幕府が南北両朝勢力の抗争をくりひろげる九州での功績によるもので、義弘は周防と同じ奉行人機構をおき、国人たち(在地領主)の所領安搭や遵行をおこない、九州の大名や国人に大きな影響をあたえた。
南北朝以降、室町・戦国時代に活躍した宇佐郡の武士団を「宇佐郡三十六士・三十六地頭または三十六人衆」といい、郡内各地の領主で「九州諸家盛衰記」によると『これらのともがらは所々に割拠、争論やむ時なかりけり』とある。
かれらは一般的に「国人」と呼ばれ、各地で村単位とも言える領主制を形成し、室町時代になると守護大名の被官になり軍事要具として活躍した。
宇佐郡三十六士のほとんどは、姓名の地に本拠を置く地頭クラスの武士(国人)で、中島氏(高家)の周辺には、時枝氏・荻原氏・佐野氏・赤尾氏・元重氏・麻生氏等がいた。
大内と大友の抗争
応仁元年(1467)、細川勝元と山名宗全の対立で応仁の大乱が起こり、双方の動員合戦で、全国から援軍が京都に集結した。
当時、周防・長門・豊前・筑前の守護大内政弘は軍勢を率いて西軍(山名)に参加し、この大乱に豊前の国人たちが大内氏に従い、上洛したと見られる。
その大内政弘の背後をつき文明元年(1468)四月豊後の大友氏が豊前に討ち入り国内をことごとく平定した。
文明元年に城井秀房・長野行種等が大友親繁に叛き糸口原で大合戦があったが、中島氏の名前は見当たらない。
文明5年(1473)に山名宗全、細川勝元が相次いで世を去り、文明9年(1477)に大内政弘は幕府からの旧領の守護職を安堵され撤兵し、応仁・文明の大乱は終結し政弘は大友氏と和睦をすすめ文明11年に豊前・筑前を平定した。
室町時代になり、豊前における大内氏と大友氏の対立抗争は幾度も繰り返された。
彼ら大名は各地の国人の勢力を大いに活用した。また、国人を懐柔するための「なになに守」の受領名や「なになに丞・忠」などの官途名を受け合戦に際しては感状を与えている。
当時、周防・長門・豊前・筑前の守護大内政弘は軍勢を率いて西軍(山名)に参加し、この大乱に豊前の国人たちが大内氏に従い、上洛したと見られる。
その大内政弘の背後をつき文明元年(1468)四月豊後の大友氏が豊前に討ち入り国内をことごとく平定した。
文明元年に城井秀房・長野行種等が大友親繁に叛き糸口原で大合戦があったが、中島氏の名前は見当たらない。
文明5年(1473)に山名宗全、細川勝元が相次いで世を去り、文明9年(1477)に大内政弘は幕府からの旧領の守護職を安堵され撤兵し、応仁・文明の大乱は終結し政弘は大友氏と和睦をすすめ文明11年に豊前・筑前を平定した。
室町時代になり、豊前における大内氏と大友氏の対立抗争は幾度も繰り返された。
彼ら大名は各地の国人の勢力を大いに活用した。また、国人を懐柔するための「なになに守」の受領名や「なになに丞・忠」などの官途名を受け合戦に際しては感状を与えている。
中島秀俊大友方になる
中島宗頼の子玄蕃丞宜時(げんばんのすけのりとき)、その七世の孫が中島修理太夫英俊で、弾正忠(だんじ ょのじょう)、壱岐守、伊予守の父である。
秀俊は大内氏の末路を憂い、豊後大友氏と親交し忠勤を励んでい た。
大内氏が滅亡するまで大友方についた中島秀俊は大友義鑑から忠勤にたいする感状をもらっている。
【就筑前国之儀 入魂之趣 乍案中祝着ニ候 度々如申候 敵者深取出候事
幸儀ニ存候篠 此節得大利候儀 別而可被添心事口存候 及テ太刀一腰守久
大鷹一本給候 自愛至極候 従是茂太刀一振遣シ候 楢年奇共可申候恐々謹言】
九月八日 儀鑑在判
中島伊豫守殿 】
感状は伊豫守とあるが、秀俊のことで、大友方として筑前で大内氏と戦い、その功労を賞し太刀や大鷹とて槍 もらったのであろう。また、天文十七年(一五四八)に大友氏の被官阿蘇惟豊の家の争いを、中島秀俊が取り 鎮めたともられる感状がある。
【就阿蘇惟豊家風取乱之由某聞候 対山下和泉守書状 加披見候
被添心候感心候 楢年寄共可申候恐々謹言
十二月十六日 義鑑 在判
中島伊豫守殿 】
秀俊は大内氏の末路を憂い、豊後大友氏と親交し忠勤を励んでい た。
大内氏が滅亡するまで大友方についた中島秀俊は大友義鑑から忠勤にたいする感状をもらっている。
【就筑前国之儀 入魂之趣 乍案中祝着ニ候 度々如申候 敵者深取出候事
幸儀ニ存候篠 此節得大利候儀 別而可被添心事口存候 及テ太刀一腰守久
大鷹一本給候 自愛至極候 従是茂太刀一振遣シ候 楢年奇共可申候恐々謹言】
九月八日 儀鑑在判
中島伊豫守殿 】
感状は伊豫守とあるが、秀俊のことで、大友方として筑前で大内氏と戦い、その功労を賞し太刀や大鷹とて槍 もらったのであろう。また、天文十七年(一五四八)に大友氏の被官阿蘇惟豊の家の争いを、中島秀俊が取り 鎮めたともられる感状がある。
【就阿蘇惟豊家風取乱之由某聞候 対山下和泉守書状 加披見候
被添心候感心候 楢年寄共可申候恐々謹言
十二月十六日 義鑑 在判
中島伊豫守殿 】
上毛郡平定
弘治(一五五七)六月十八日に広津治部大輔の在所へ山田安芸守隆朝らが攻めてきた。このとき広津城には、杉因幡重昌・佐田弾正忠隆居・野仲兵庫頭鎮兼・福島安芸守や田原親宏の被官等が楯籠り、防戦の準備をしていたから、はげしい戦闘がくりひろげられ、十八日の合戦で首六七、十九日の合戦で討死一〇〇、負傷二〇〇ばかりをだして、山田勢は退却した。
同日、田原衆・富来・真玉・都甲・北浦辺の衆が高田を出発、夕方、築地(中津市福島)に到着し、上毛郡(現福岡県豊前市・築上郡)はことごとく焼き討ちされ二十一日に山田氏の山田城が陥落した。(佐田文書)
大友義鎮が豊前を平定し平和がおとずれたが、それもつかの間、毛利勢が豊前に侵入し攻防が操返され、下毛郡の野仲鎮兼が再び背き、佐田氏(現宇佐郡安心院町)らが攻め野仲氏は没落した。この頃は防州の毛利方と豊後の大友方の合戦が幾度も繰り返され、それぞれにわかれた同郷の武士たちが領地を守るために戦っており、宇佐郡では隣同市の武士の悲惨な戦いへと進展していった。
同日、田原衆・富来・真玉・都甲・北浦辺の衆が高田を出発、夕方、築地(中津市福島)に到着し、上毛郡(現福岡県豊前市・築上郡)はことごとく焼き討ちされ二十一日に山田氏の山田城が陥落した。(佐田文書)
大友義鎮が豊前を平定し平和がおとずれたが、それもつかの間、毛利勢が豊前に侵入し攻防が操返され、下毛郡の野仲鎮兼が再び背き、佐田氏(現宇佐郡安心院町)らが攻め野仲氏は没落した。この頃は防州の毛利方と豊後の大友方の合戦が幾度も繰り返され、それぞれにわかれた同郷の武士たちが領地を守るために戦っており、宇佐郡では隣同市の武士の悲惨な戦いへと進展していった。
中島伊予守の麻生攻め
永禄四年に大友の豊前探題田原紹忍は三十六士を従え門司に進攻したが毛利勢に破れ、親毛利派が宇佐郡に芽生える。この戦いで中島弾生忠秀直が軍功を立てている。
宇佐郡麻生の高山に毛利方の宇佐郡三十六士のひとり麻生親政の高尾城があった。麻生氏はもとは大友氏に属していたが赤まむしといわれる田原紹忍をきらい永禄九年(一五六六)二月に反旗をひるがえした。大友の奇手の大将田原紹忍の指揮で、光岡城主赤尾式部少輔賢種は正面の大将として元重に本陣をおいた。
中島房直は搦手の大将として小倉原に本陣を置き気勢を揚げた。従う一族は中島主殿允俊直・同弾生忠秀直・同雅楽允惟直・同四朗直之・同民部直次。相従う家臣は荒川金吾・清原新兵衛直衡・尾藤成祐・高家帯刀宗頼・同玄蕃允・同孫次郎・金光出羽守光頼・塚崎頼房・原口成信・林崎入道常森・林光季・恒吉縫殿助為治・同善三郎為久・川顔重家など二百五十余騎であった。
麻生攻めの時は、赤尾氏・中島氏・成恒氏(下毛郡)の軍は顔見知りの麻生氏の降参を待つと言った消極的攻撃戦法をとった。ところがこの行動を監視していた田原紹忍が怒り、大友宗麟へ注進したところ、宗麟は攻撃軍を慰めようと酒や肴を送ってきた。これに感激した奇手は一斉に城門へ攻め登った。落城寸前に赤尾賢種は「攻め殺すにしのびない」と、城主麻生親政に降伏をすすめたが、「赤まむしの首をうち斬るまで戦う」とことわった。そして、激戦の末、高尾城は落ち、城主と一族は自害して果てた。(両豊記)
中島房直は伊予守に任じられ、大友の世子義統の「統」の字を賜って、名を「統次」とあらため、感状をもらった。また、赤尾・成恒との連名の感状もある。
宇佐郡麻生の高山に毛利方の宇佐郡三十六士のひとり麻生親政の高尾城があった。麻生氏はもとは大友氏に属していたが赤まむしといわれる田原紹忍をきらい永禄九年(一五六六)二月に反旗をひるがえした。大友の奇手の大将田原紹忍の指揮で、光岡城主赤尾式部少輔賢種は正面の大将として元重に本陣をおいた。
中島房直は搦手の大将として小倉原に本陣を置き気勢を揚げた。従う一族は中島主殿允俊直・同弾生忠秀直・同雅楽允惟直・同四朗直之・同民部直次。相従う家臣は荒川金吾・清原新兵衛直衡・尾藤成祐・高家帯刀宗頼・同玄蕃允・同孫次郎・金光出羽守光頼・塚崎頼房・原口成信・林崎入道常森・林光季・恒吉縫殿助為治・同善三郎為久・川顔重家など二百五十余騎であった。
麻生攻めの時は、赤尾氏・中島氏・成恒氏(下毛郡)の軍は顔見知りの麻生氏の降参を待つと言った消極的攻撃戦法をとった。ところがこの行動を監視していた田原紹忍が怒り、大友宗麟へ注進したところ、宗麟は攻撃軍を慰めようと酒や肴を送ってきた。これに感激した奇手は一斉に城門へ攻め登った。落城寸前に赤尾賢種は「攻め殺すにしのびない」と、城主麻生親政に降伏をすすめたが、「赤まむしの首をうち斬るまで戦う」とことわった。そして、激戦の末、高尾城は落ち、城主と一族は自害して果てた。(両豊記)
中島房直は伊予守に任じられ、大友の世子義統の「統」の字を賜って、名を「統次」とあらため、感状をもらった。また、赤尾・成恒との連名の感状もある。
赤尾氏と中島房直の敗軍
作成中
中島壱岐守の戦死と時枝との和睦
天正六年(一五七八)、大友義鎮は島津氏を討つため、三万五千の軍勢を率いて日向に進撃した。この戦いに宇佐郡三十六士は田原紹忍の軍に組み込まれ赤尾弥五郎鎮種が戦死、その家臣三人が負傷しているが、中島氏の記録は見つからない。しかし、高城の耳川で大友軍は大敗し、豊前における大友の勢いが衰え、毛利派の佐野親重・時枝鎮継はひそかに筑前の瀧造寺氏・秋月氏と連合し、大友の拠点宇佐郡妙見城を攻撃しようとした。さらに、大友方の中島氏に標的をさだめていた。
そうした、軍事的緊張情勢下の天正七年(一五七九)正月、野仲鎮兼は下毛・上毛の族臣や給人二千余人を勢揃いさせ、土田城、日田口・玖珠口・麻生口などに長岩城の防衛線を設け、正月九日に城を出発し、大友派の坂手隈城(現三光村)を攻撃、鎮家は手勢を率いて加来切寄(城)に逃れた。
加来安芸守・福島佐渡守・成恒越中守・蛎瀬新五兵衛等の籠城した上毛郡の大友派の拠点加来城は野仲勢に包囲され、壮絶な攻防戦がおこなわれた。野仲鎮兼が兵をまとめ一斉攻撃に移らんとしていたときに、宇佐郡の中島主殿助俊直、渡辺佐渡守統政の援軍三百余騎が駆けつけ、鎮兼の本陣を襲い野仲勢は敗退したが、そのごも大友派の加来・福島・成恒勢と何度も合戦をしている。
天正七年(一五七九)九月、時枝鎮継は佐野等の毛利派の諸将と語らい、一挙に高家城に攻め寄せてきた。大友の援軍はないことを承知していた中島方は津々見・金光・吉松等の与党を集め、四方の要所を固め防戦の準備におこたりなかった。
時枝勢の攻撃に城兵は勇猛に奮戦し撃退したが、中島壱岐守は手兵五十騎を率いて追撃し、時枝の本城近くまで攻め寄せた。しかし、深入りは禁物と退きかけたとき、時枝勢は後続部隊のないことを知り、新手を繰り出し中島勢を取り囲み、庄川の辺りで乱戦になった。中島壱岐守は重傷をおいながら勇猛に奮戦したが、ついに庄川原で戦死した。ときに四十才であった。
中島伊予守房直は兄壱岐守吉直の戦死を知らず佐野親重の軍と戦い勝利、佐野は退却した。この戦いは敵味方とも損害が多く、十月十八日に両軍和議を容れることになった。
時枝勢の和睦の誓書で阿波長賀を人質にしており、中島方も質を納めている。また、中島弾正忠秀直とも人質を交換している。(伊予守宛の誓書は中島氏文より転載)
小野精一先生は「中島氏文」で、天正七年の高家籠城戦の伊予守と壱岐守に宛てた大友義統の九月十五日の感状で、同年十月十八日の壱岐守吉直の戦死に疑問を抱いている。
すなわち、時枝勢が高家城に攻め寄せたのは、九月十日であり、戦死日とは接合したい。さらに、天正十三年十月二日に中島勢が時枝城を包囲し、合戦が十数日におよんだとみれば天正十三年説が成り立つとしている。
そうした、軍事的緊張情勢下の天正七年(一五七九)正月、野仲鎮兼は下毛・上毛の族臣や給人二千余人を勢揃いさせ、土田城、日田口・玖珠口・麻生口などに長岩城の防衛線を設け、正月九日に城を出発し、大友派の坂手隈城(現三光村)を攻撃、鎮家は手勢を率いて加来切寄(城)に逃れた。
加来安芸守・福島佐渡守・成恒越中守・蛎瀬新五兵衛等の籠城した上毛郡の大友派の拠点加来城は野仲勢に包囲され、壮絶な攻防戦がおこなわれた。野仲鎮兼が兵をまとめ一斉攻撃に移らんとしていたときに、宇佐郡の中島主殿助俊直、渡辺佐渡守統政の援軍三百余騎が駆けつけ、鎮兼の本陣を襲い野仲勢は敗退したが、そのごも大友派の加来・福島・成恒勢と何度も合戦をしている。
天正七年(一五七九)九月、時枝鎮継は佐野等の毛利派の諸将と語らい、一挙に高家城に攻め寄せてきた。大友の援軍はないことを承知していた中島方は津々見・金光・吉松等の与党を集め、四方の要所を固め防戦の準備におこたりなかった。
時枝勢の攻撃に城兵は勇猛に奮戦し撃退したが、中島壱岐守は手兵五十騎を率いて追撃し、時枝の本城近くまで攻め寄せた。しかし、深入りは禁物と退きかけたとき、時枝勢は後続部隊のないことを知り、新手を繰り出し中島勢を取り囲み、庄川の辺りで乱戦になった。中島壱岐守は重傷をおいながら勇猛に奮戦したが、ついに庄川原で戦死した。ときに四十才であった。
中島伊予守房直は兄壱岐守吉直の戦死を知らず佐野親重の軍と戦い勝利、佐野は退却した。この戦いは敵味方とも損害が多く、十月十八日に両軍和議を容れることになった。
時枝勢の和睦の誓書で阿波長賀を人質にしており、中島方も質を納めている。また、中島弾正忠秀直とも人質を交換している。(伊予守宛の誓書は中島氏文より転載)
小野精一先生は「中島氏文」で、天正七年の高家籠城戦の伊予守と壱岐守に宛てた大友義統の九月十五日の感状で、同年十月十八日の壱岐守吉直の戦死に疑問を抱いている。
すなわち、時枝勢が高家城に攻め寄せたのは、九月十日であり、戦死日とは接合したい。さらに、天正十三年十月二日に中島勢が時枝城を包囲し、合戦が十数日におよんだとみれば天正十三年説が成り立つとしている。
系譜3
作成中
時枝氏の敗走
和睦は一時の方便、永久に保たれぬのは当然で、いかなる誓書も反古同様であった。天正八年(一五八〇)に時枝氏が和を破り高家城を襲おうとした。しかし、背後に大友方の渡辺・津々見がひかえ、不利と悟った時枝勢はなにもできず引き返した。
大友は豊前の劣勢を挽回するために、天正十年(一五八二)に田原入道の指揮で、四日市の渡辺勢が時枝城を攻めて痛手を負わし、その後津々見左衛門にも攻められている。
さすがの時枝鎮継も到底独力では交戦できぬと、天正十三年(一五八五)三月に、ひそかに諸田左京という者を防州の毛利につかわし援軍を依頼している。
数年軍功に励み、佐野源左衛門と協力して、近隣の大友勢を討ち従えたが、南に渡辺あり、東に中島あって、戦闘を続けているが、実に某の小勢では敵し難い。願わくば援軍一隊を得て、せめては宇佐郡一円を静謐に帰したい。
小早川隆景は直ちに内藤某に精兵二百五十騎を与え出発させた。中島房直は早くもこれを察知し、毛利勢の到着を待ち伺い軍議の熟しないのに乗じ、吉村兵部丞等と天正十三年十月二日の夜、時枝城を包囲した。
時枝城では毛利勢を歓待しており、防戦の準備をするいとまもなく周章狼狽している内 に房直は下知して突進、城兵は悪戦苦闘のすえ敗走した。中島勢は敵の首二百三十を得た が味方の戦死も少なくはなかったとみられる。時枝平太夫鎮継は破れ、開城して海路防州 に逃れ、小早川氏に頼った。ついに、中島氏は長年の宿敵時枝氏を倒し、宇佐地方の抗争 は小康をえたのである。
大蔵丞は房直の管途名であろう。田原紹忍から軍功をもって高家郷全部を加増され、こ の時、兄の弾正忠にも大友家の家老から感状が寄せられている。
大友は豊前の劣勢を挽回するために、天正十年(一五八二)に田原入道の指揮で、四日市の渡辺勢が時枝城を攻めて痛手を負わし、その後津々見左衛門にも攻められている。
さすがの時枝鎮継も到底独力では交戦できぬと、天正十三年(一五八五)三月に、ひそかに諸田左京という者を防州の毛利につかわし援軍を依頼している。
数年軍功に励み、佐野源左衛門と協力して、近隣の大友勢を討ち従えたが、南に渡辺あり、東に中島あって、戦闘を続けているが、実に某の小勢では敵し難い。願わくば援軍一隊を得て、せめては宇佐郡一円を静謐に帰したい。
小早川隆景は直ちに内藤某に精兵二百五十騎を与え出発させた。中島房直は早くもこれを察知し、毛利勢の到着を待ち伺い軍議の熟しないのに乗じ、吉村兵部丞等と天正十三年十月二日の夜、時枝城を包囲した。
時枝城では毛利勢を歓待しており、防戦の準備をするいとまもなく周章狼狽している内 に房直は下知して突進、城兵は悪戦苦闘のすえ敗走した。中島勢は敵の首二百三十を得た が味方の戦死も少なくはなかったとみられる。時枝平太夫鎮継は破れ、開城して海路防州 に逃れ、小早川氏に頼った。ついに、中島氏は長年の宿敵時枝氏を倒し、宇佐地方の抗争 は小康をえたのである。
大蔵丞は房直の管途名であろう。田原紹忍から軍功をもって高家郷全部を加増され、こ の時、兄の弾正忠にも大友家の家老から感状が寄せられている。
佐野城の落城
宇佐市大字佐野の光明寺は曹洞宗で観音菩薩を本尊とし永享三(一四三一)年に開基したと伝えられ、佐野氏の菩提所であった。
光明寺の境内にある二連板碑(県指定)は元応元年(一三一九)に三十三回忌供養のため造立され、今仁の谷を水源とする野田川に埋没していたものを移転したもので、鎌倉時代から佐野一帯を支配していた有力士豪がいたと推定される。
佐野城は応安年間(一三六七-七五)に佐野助太郎親道が築城したと伝えられ、土井城とも言う。城は光明寺境内地で、土塁の一部が南・西・北側に残り、南側土塁の東隅に「宇佐史談会」が建てた記念碑がある。
史書(郷土史談二一号)に『佐野城は西に野田川をめぐらし、東に春日の霊泉を引き、中央が高く南北一町ばかり、わずかに片峰の山裾に連なり、東南木戸口・西北尾西口に支城』と述べている。この記述から天然水を導入した堀をめぐらせ、本丸に該当する砦と二箇所に支砦(城戸)があったと想定される。
佐野氏ははじめ大内氏に従属していたが、大内氏が滅び、豊後の大友氏に属したが、永禄九年に同族の麻生親政が滅ぼされ、造反し隣村の赤尾氏を攻撃した。赤尾氏の光岡城は尾根頂上にあり、その尾根の先端下に佐野城、目と鼻の位置にあった。
天正六年に大友氏が日向の高城合戦で大敗してから、佐野氏は毛利氏と通じ、時枝氏と大友派の高家城の中島氏と抗争を繰り返した。しかし、大友史料によると天正十一年十月八日に大友の大軍に攻められ落城している。
『天正十四年八月、その子源次郎が人質として妙見岳城(宇佐郡香下)にいるのを、ひそかに呼び戻し、その代わりに甥の虎寿丸をつかわした。そのことを知った探題親盛が豊後の豊府に注進すると、田原紹忍が怒り、虎寿丸の手足の爪を一日に一指宛抜かせて殺し、その首を送り返した。佐野源左衛門親重は憤り、下毛郡長岩城の野仲氏に謀り、城郭を補修し、一族家臣奈良頼母介重尚・有安兵部重根・築城伝治兵衛重通・園田外治郎孟貞・佐野清左衛門宗・同太郎宗範・門柳七郎左衛門武重・野田刑部経方・梶谷金吾重堅・齋田治郎尚久・小犬丸弾平高通・片峯高俊・船橋治郎宗済を始め二百八十四人が籠城した』(宇佐郡地頭伝)
籠城を聞いた豊府の大友義統は九月六日に5千余騎を率いて、佐野城を包囲した。これより激戦が展開されたが、ついに落城したと戦記にある。戦記の落城年月日は史料とことなるが、大友の大軍を一手に引き受けた佐野一族の奮闘振りがうかがえる。
日向の高城で大敗し、豊前における大友の力は斜陽化したといえど、孤軍奮闘の小領主の運命は目に見えている。若し、この戦いに長岩城の野仲勢が出陣し参戦しておれば、下毛・宇佐全域に戦火は拡大していっただろう。ともかく、大友は宇佐郡を平定したのであるが、佐野城の攻撃における中島城の戦功の記録は不明である。
光明寺の境内にある二連板碑(県指定)は元応元年(一三一九)に三十三回忌供養のため造立され、今仁の谷を水源とする野田川に埋没していたものを移転したもので、鎌倉時代から佐野一帯を支配していた有力士豪がいたと推定される。
佐野城は応安年間(一三六七-七五)に佐野助太郎親道が築城したと伝えられ、土井城とも言う。城は光明寺境内地で、土塁の一部が南・西・北側に残り、南側土塁の東隅に「宇佐史談会」が建てた記念碑がある。
史書(郷土史談二一号)に『佐野城は西に野田川をめぐらし、東に春日の霊泉を引き、中央が高く南北一町ばかり、わずかに片峰の山裾に連なり、東南木戸口・西北尾西口に支城』と述べている。この記述から天然水を導入した堀をめぐらせ、本丸に該当する砦と二箇所に支砦(城戸)があったと想定される。
佐野氏ははじめ大内氏に従属していたが、大内氏が滅び、豊後の大友氏に属したが、永禄九年に同族の麻生親政が滅ぼされ、造反し隣村の赤尾氏を攻撃した。赤尾氏の光岡城は尾根頂上にあり、その尾根の先端下に佐野城、目と鼻の位置にあった。
天正六年に大友氏が日向の高城合戦で大敗してから、佐野氏は毛利氏と通じ、時枝氏と大友派の高家城の中島氏と抗争を繰り返した。しかし、大友史料によると天正十一年十月八日に大友の大軍に攻められ落城している。
『天正十四年八月、その子源次郎が人質として妙見岳城(宇佐郡香下)にいるのを、ひそかに呼び戻し、その代わりに甥の虎寿丸をつかわした。そのことを知った探題親盛が豊後の豊府に注進すると、田原紹忍が怒り、虎寿丸の手足の爪を一日に一指宛抜かせて殺し、その首を送り返した。佐野源左衛門親重は憤り、下毛郡長岩城の野仲氏に謀り、城郭を補修し、一族家臣奈良頼母介重尚・有安兵部重根・築城伝治兵衛重通・園田外治郎孟貞・佐野清左衛門宗・同太郎宗範・門柳七郎左衛門武重・野田刑部経方・梶谷金吾重堅・齋田治郎尚久・小犬丸弾平高通・片峯高俊・船橋治郎宗済を始め二百八十四人が籠城した』(宇佐郡地頭伝)
籠城を聞いた豊府の大友義統は九月六日に5千余騎を率いて、佐野城を包囲した。これより激戦が展開されたが、ついに落城したと戦記にある。戦記の落城年月日は史料とことなるが、大友の大軍を一手に引き受けた佐野一族の奮闘振りがうかがえる。
日向の高城で大敗し、豊前における大友の力は斜陽化したといえど、孤軍奮闘の小領主の運命は目に見えている。若し、この戦いに長岩城の野仲勢が出陣し参戦しておれば、下毛・宇佐全域に戦火は拡大していっただろう。ともかく、大友は宇佐郡を平定したのであるが、佐野城の攻撃における中島城の戦功の記録は不明である。