山王宮(高家神社)
當社所奉齋三女神則鎮座筑之前州宗像郡大神也 曩有神民觸穢失忝敬神
明 震怒乗空船煙湮没大■畢 闕後朱雀天皇御宇天慶三庚子年三月下十
日 於豊之前州宇佐郡高家郷吹上之浦 有渾如鷄子物乗浪来着 土人天
之瓊鉾捜之採而見則奸哉可美神而 光輝赫々稜威厳重也因奉齋為郷内擁
護神矣 世俗呼三女神来着之地稱風波吹上之浦 此時筑前宗像大宮司正三位中納言 氏兼尋来而奉仕焉 因書以供後鑑云爾
天慶三庚子年十一月十二日
筑前宗像大宮司清氏裔
大宮司 正三位 中納言氏兼
これは三女神の縁起であるが、この棟札の裏面にこの縁起を記し、表には、
上下相應 驅三神 和光聲
國人豊榮 播麼 飛行德
明應七年建之 豊前國宇佐郡高家郷領
中島太郎左衛門尉清原秀興
享禄三年建之 中島仁左衛門尉清原秀任
寛永十八年建之 伊豫守統次五代之孫
中島市郎兵衛尉清原正直
とある。父子三代が続いて三度も建立したという奇特さだ。但し社有の記録には以上の文字が缺けてはいるが、しかし造営の功を樹てたものと想われる有力な資料である。それは徳川時代になっても、中島家の信仰の甚だ厚かった、それである。
また口絵の拓本は、三女神宝前に掲げてある「宗像山王宮」の扁額がそれである。扁額のその裏面には大永四(一五二四)年甲申月日中島大蔵丞清原秀助(花押)と印刻してある。
大永四年といえば、四百十五年前(昭和十五年ヨリ)の事で、本郡では深見守時というが、大友氏に叛き、大友氏鑑に攻め滅ぼされたという年で、比較的宇佐郡内は平穏であり、大友勢力に帰していたが、この秀助父子三代、秀興・秀俊と氏神山王宮の造営をしたり、こうした扁額を納め、敬神崇祖という、祖国精神を顕している。
その筆蹟を視る、文学闇黒時代と思われぬ程、筆致の雄勁を思わせる。秀助父子無文の武将でないことが傾慕させる。
降って徳川時代となると、中島氏が次々に石燈籠を寄進している。その数が約二十基計りで、中島氏以外の寄進者は別にないようだ。
◎寛文五年□□□ 石燈籠一基 本願 中島彌之助
〇寶永□□暮春吉祥日 造立石燈籠一基 氏名不明
〇寶永□□暮春吉祥日 奉建立石燈籠一基 氏名不明
〇寶永□□暮春吉祥日 奉造立石燈籠一基 氏名不明
◎安永九庚子天三月吉旦 中島文左衛門尉清原直綱
〇于時萬治□春吉祥日 奉寄進石燈籠四基之内
〇于時萬治□□前 同然
〇維時□□ 暮春吉祥日 奉寄進石燈籠四本之内
〇天明三□□ (これだけでない。完全に読めぬには石燈籠を玉垣に利したので塗り込まれているからである)
◎于時明暦第四戊戌歳 奉寄進石燈籠 中島市郎左衛門尉正直
〇明暦三丁丑二月二十一日 奉寄進石燈籠二本之内
〇于時萬治三庚子?二日吉祥日 奉寄進
◎安永九年庚子天三月三日 中島英子文作尉清原道房
完全に刻字の読めるには◎印の四基に過ぎないが、皆中島氏で、当年の信仰の現れであり、他姓で寄進した者は、唯の一基もない。
最近では華表等に他姓の寄進を見る。猶神前に献燈するに、古来中島氏が申殿の正面を占めていたという。
何かの優先権を認められている証左と思われる。
その申殿の格天井の如きは明治初年に中島富九郎・同息男二氏の寄進により成り、更に明治廿三四年の頃に、同正留、大工首藤健十郎の喜捨により、修覆されたとある。
山王宮の維持面目は中島一族の浄心奇特によるものと思われた。
明 震怒乗空船煙湮没大■畢 闕後朱雀天皇御宇天慶三庚子年三月下十
日 於豊之前州宇佐郡高家郷吹上之浦 有渾如鷄子物乗浪来着 土人天
之瓊鉾捜之採而見則奸哉可美神而 光輝赫々稜威厳重也因奉齋為郷内擁
護神矣 世俗呼三女神来着之地稱風波吹上之浦 此時筑前宗像大宮司正三位中納言 氏兼尋来而奉仕焉 因書以供後鑑云爾
天慶三庚子年十一月十二日
筑前宗像大宮司清氏裔
大宮司 正三位 中納言氏兼
これは三女神の縁起であるが、この棟札の裏面にこの縁起を記し、表には、
上下相應 驅三神 和光聲
國人豊榮 播麼 飛行德
明應七年建之 豊前國宇佐郡高家郷領
中島太郎左衛門尉清原秀興
享禄三年建之 中島仁左衛門尉清原秀任
寛永十八年建之 伊豫守統次五代之孫
中島市郎兵衛尉清原正直
とある。父子三代が続いて三度も建立したという奇特さだ。但し社有の記録には以上の文字が缺けてはいるが、しかし造営の功を樹てたものと想われる有力な資料である。それは徳川時代になっても、中島家の信仰の甚だ厚かった、それである。
また口絵の拓本は、三女神宝前に掲げてある「宗像山王宮」の扁額がそれである。扁額のその裏面には大永四(一五二四)年甲申月日中島大蔵丞清原秀助(花押)と印刻してある。
大永四年といえば、四百十五年前(昭和十五年ヨリ)の事で、本郡では深見守時というが、大友氏に叛き、大友氏鑑に攻め滅ぼされたという年で、比較的宇佐郡内は平穏であり、大友勢力に帰していたが、この秀助父子三代、秀興・秀俊と氏神山王宮の造営をしたり、こうした扁額を納め、敬神崇祖という、祖国精神を顕している。
その筆蹟を視る、文学闇黒時代と思われぬ程、筆致の雄勁を思わせる。秀助父子無文の武将でないことが傾慕させる。
降って徳川時代となると、中島氏が次々に石燈籠を寄進している。その数が約二十基計りで、中島氏以外の寄進者は別にないようだ。
◎寛文五年□□□ 石燈籠一基 本願 中島彌之助
〇寶永□□暮春吉祥日 造立石燈籠一基 氏名不明
〇寶永□□暮春吉祥日 奉建立石燈籠一基 氏名不明
〇寶永□□暮春吉祥日 奉造立石燈籠一基 氏名不明
◎安永九庚子天三月吉旦 中島文左衛門尉清原直綱
〇于時萬治□春吉祥日 奉寄進石燈籠四基之内
〇于時萬治□□前 同然
〇維時□□ 暮春吉祥日 奉寄進石燈籠四本之内
〇天明三□□ (これだけでない。完全に読めぬには石燈籠を玉垣に利したので塗り込まれているからである)
◎于時明暦第四戊戌歳 奉寄進石燈籠 中島市郎左衛門尉正直
〇明暦三丁丑二月二十一日 奉寄進石燈籠二本之内
〇于時萬治三庚子?二日吉祥日 奉寄進
◎安永九年庚子天三月三日 中島英子文作尉清原道房
完全に刻字の読めるには◎印の四基に過ぎないが、皆中島氏で、当年の信仰の現れであり、他姓で寄進した者は、唯の一基もない。
最近では華表等に他姓の寄進を見る。猶神前に献燈するに、古来中島氏が申殿の正面を占めていたという。
何かの優先権を認められている証左と思われる。
その申殿の格天井の如きは明治初年に中島富九郎・同息男二氏の寄進により成り、更に明治廿三四年の頃に、同正留、大工首藤健十郎の喜捨により、修覆されたとある。
山王宮の維持面目は中島一族の浄心奇特によるものと思われた。
西の林の首塚と祖霊社
西の林は本村東南端にあって、現に中島氏一族の墳墓地である。青苔滑らかな石塔が累々としている。しかし元禄を切って以前の墓はないようである。
『宇佐郡記』によれば、伊豫守房直の首級は、庄川原に梟し、郷党に曝したのであるが、一族これを奪い取り、この西の林に埋めたとある。現に西の林 墓地の北隅に当たって、廃墟の上に墓の礎石らしきものが残存している。
「天正十七年三月三日(側面)清原眞人統次(正面)寶永三年三月三日建立(側面)」の文字が刻んである。これを建てた当時の寶永の頃は、この地が首塚であると認めたものに違いない。遺跡の泯滅せんことを恐れて、建てたものであろうが、それも碑石の石基のみである。
それから明治の初年になって、更に石社を建て房直の霊を祀ってあったが、明治四十(一九〇七)年一統の評議で、祖霊社を建立して、これにその伊豫守を祀ってあった。西の林の石社も遷して、兄弟三人合祀となった。(但し石祠もそれぞれ三人別に並んでいる)
しかるに同村の宗顕寺内の墓地に、伊豫守の首級がある。西の林のものを改葬したのか、二様に祀ったのか、その辺のことは分からない。
『宇佐郡記』などの記事を尊重すれば、どうも二様に祀ったものと思われる。その宗顕寺内の伊豫守の碑は、台が一つで、その上に一尺四方位の偏平なる碑に、笠型の蓋を置き、中央に地藏を刻み、南側に「天正十七年」「三月三日」、背面に「中島伊豫入道」と記してある。(口絵参照)
宗顕寺内に、中島一統の墓が沢山ある。しかし最も古いのが、寶永・元禄のものである。天正(一五七三~九二)と元禄(一六八八~一七〇四)の間は約百年である。天正以来の古い墓が連続していれば、天正の墓もその時代のものであろうと思われるけれども、元禄以降は今日まで続いているから、元禄頃に西の林から、この地に遷り、その際に天正の伊豫守の墓も建てたものであろうとは、誰でも考えることである。
明治四十(一九〇七)年に中島一族のかぐわしく思い立ちて、祖霊社なるものを建てられた。湘たる地を卜し、神殿を建て、荘厳赫々である。
神垣につづく神の森、森かげしんしんとして、神寂渡るたたずまい、三人の御霊は安く祀られてある。
祀られる霊は子孫の栄えの護りの社である。これこそ敬神崇祖の国ぶりの、いと目出度き限りである。祀るべき先祖の明ら闡からぬものもある。祀ってくれる子孫のなき先祖もある。世の中に良き霊は良き子に祀られる。人世のれに過ぎる事はあるまい。
先祖の貽した余慶によって、栄ゆる兒孫よ、この神の神垣の下に、栄ゆる子孫よ、平和は神の心、和楽は神の教えぞ、よく先祖の遺訓を体得し、一致団結して、己が家業にいそしみ、兒孫の繁栄を計る。これが皇国への忠義で、先祖への追孝となるべき思い、無用の婆心を動かすものである。
さて霊社へ弾正忠・壹岐守・伊豫守の三人の御魂を祀るは固より、しかるべきであるが、高家村の蒼を創いた恩人は、初代中島左衛門宜長ではないか。この宜長の霊こそ、産土の神として祀るべきかと思われる。宜長の神霊を中心に三人の御霊を配祀する、誠に報本反始の心にも合うべく思いて止まざるものである。
弾正忠の祠には、「維時明治六年三月三日再興、世話人、中島足男・同傳次郎・同喜之助・末裔五十二戸」と刻んでいる。
伊豫守の祠には、中島弾正忠秀直十一代後胤、明治十二年己卯二月九日、世話人、中島林兵衛建立、之中島仁左衛門・同善兵衛・同儀右衛門・同甚十郎・同文兵衛・同卯右衛門・同宅右衛門・同範造・同傳平・同銀治・同保兵衛・同良造・同林兵衛」と連名している・ しかるに中央の壹岐守の祠は小さくもあるが、中島佐次右衛門の一人の名しかない。年号も何も風化して見えない。佐次右衛門が建てたものであろうか。
『宇佐郡記』によれば、伊豫守房直の首級は、庄川原に梟し、郷党に曝したのであるが、一族これを奪い取り、この西の林に埋めたとある。現に西の林 墓地の北隅に当たって、廃墟の上に墓の礎石らしきものが残存している。
「天正十七年三月三日(側面)清原眞人統次(正面)寶永三年三月三日建立(側面)」の文字が刻んである。これを建てた当時の寶永の頃は、この地が首塚であると認めたものに違いない。遺跡の泯滅せんことを恐れて、建てたものであろうが、それも碑石の石基のみである。
それから明治の初年になって、更に石社を建て房直の霊を祀ってあったが、明治四十(一九〇七)年一統の評議で、祖霊社を建立して、これにその伊豫守を祀ってあった。西の林の石社も遷して、兄弟三人合祀となった。(但し石祠もそれぞれ三人別に並んでいる)
しかるに同村の宗顕寺内の墓地に、伊豫守の首級がある。西の林のものを改葬したのか、二様に祀ったのか、その辺のことは分からない。
『宇佐郡記』などの記事を尊重すれば、どうも二様に祀ったものと思われる。その宗顕寺内の伊豫守の碑は、台が一つで、その上に一尺四方位の偏平なる碑に、笠型の蓋を置き、中央に地藏を刻み、南側に「天正十七年」「三月三日」、背面に「中島伊豫入道」と記してある。(口絵参照)
宗顕寺内に、中島一統の墓が沢山ある。しかし最も古いのが、寶永・元禄のものである。天正(一五七三~九二)と元禄(一六八八~一七〇四)の間は約百年である。天正以来の古い墓が連続していれば、天正の墓もその時代のものであろうと思われるけれども、元禄以降は今日まで続いているから、元禄頃に西の林から、この地に遷り、その際に天正の伊豫守の墓も建てたものであろうとは、誰でも考えることである。
明治四十(一九〇七)年に中島一族のかぐわしく思い立ちて、祖霊社なるものを建てられた。湘たる地を卜し、神殿を建て、荘厳赫々である。
神垣につづく神の森、森かげしんしんとして、神寂渡るたたずまい、三人の御霊は安く祀られてある。
祀られる霊は子孫の栄えの護りの社である。これこそ敬神崇祖の国ぶりの、いと目出度き限りである。祀るべき先祖の明ら闡からぬものもある。祀ってくれる子孫のなき先祖もある。世の中に良き霊は良き子に祀られる。人世のれに過ぎる事はあるまい。
先祖の貽した余慶によって、栄ゆる兒孫よ、この神の神垣の下に、栄ゆる子孫よ、平和は神の心、和楽は神の教えぞ、よく先祖の遺訓を体得し、一致団結して、己が家業にいそしみ、兒孫の繁栄を計る。これが皇国への忠義で、先祖への追孝となるべき思い、無用の婆心を動かすものである。
さて霊社へ弾正忠・壹岐守・伊豫守の三人の御魂を祀るは固より、しかるべきであるが、高家村の蒼を創いた恩人は、初代中島左衛門宜長ではないか。この宜長の霊こそ、産土の神として祀るべきかと思われる。宜長の神霊を中心に三人の御霊を配祀する、誠に報本反始の心にも合うべく思いて止まざるものである。
弾正忠の祠には、「維時明治六年三月三日再興、世話人、中島足男・同傳次郎・同喜之助・末裔五十二戸」と刻んでいる。
伊豫守の祠には、中島弾正忠秀直十一代後胤、明治十二年己卯二月九日、世話人、中島林兵衛建立、之中島仁左衛門・同善兵衛・同儀右衛門・同甚十郎・同文兵衛・同卯右衛門・同宅右衛門・同範造・同傳平・同銀治・同保兵衛・同良造・同林兵衛」と連名している・ しかるに中央の壹岐守の祠は小さくもあるが、中島佐次右衛門の一人の名しかない。年号も何も風化して見えない。佐次右衛門が建てたものであろうか。