中島神社

皇祖中島宜長七百年祭

中島神社写真1 あたかも皇紀二千六百年、この光輝ある年に、中島一統には祖先顕彰の議が熟し、三月十七日先祖慰霊祭が執り行われた。誠に時局柄麗わしい追孝という精神の発露をなす。斎主宗像氏の祝詞及び代表中島馨氏の祭文を掲げ、後鑑となすものである。当日は発起人九人、出資者約七十人、直会に列した人数約八十人、他郷で活躍している人が九十人とあり、誠に一族繁栄とは文字通り、余興などもあり、風薫るなごやかな集いであった。その発起人には、長洲町南富藏、その他は高家村即ち当年の中島城趾に聚落をなす一族で、中島馨・同知足・同直家・同恒吉・同巌・同忠治・同増夫、それに今年神嘗祭の献穀田奉耕者同秀雄などであった。

  祝詞
  此れ御社に齋き奉り、鎮め奉れる中島氏の遠つ御祖代々の親等の中に。此   里回に住へる子孫の者共に由緒深く慕い奉れる、中島刑部少輔宜長彦命の御霊の御前に、郷社高家神社々司宗像豊樹謹みて白さく、中島氏は遠く飛鳥の清見原の大宮に天下知食し、大海人の天皇の御末を受け給ひけるが、宜長彦の命はもよ、承久の亂の時後鳥羽上皇の召しを恐み、力の限り皇軍に盡ししも、遂に敗れて恐しや皇子達大夫達海の原、遠つ島邊に遷し奉るに至り、宜長彦命も固より免るる理無く、伊豆に流されたり、斯くて詫び住居を十年の後、宜長彦命の族に賢き人有りて、かに斯くと、奔走したれば、北條泰時殊に宜長彦命を赦し、延應元年九月廿一日薦枕高家の郷地頭職に補さる彼れ宜長彦命は御教書を持ちて、其年の十二月の後の八日に、一族郎徒等を卒連れ従へて、我高家郷に来入給ひ、城を築きて高家乙咩小長井の村々を領き總ね玉へりしなり、斯くて世は猶安からず、民を撫つるにも道を布くにも、然かすかに難かりけむを、克く導き開きし功は、實に尊き限りぞ有鳧、かく宜長彦命が来入給ひてより、去年の師走の後の八日時しも、恰も七百年になりぬる也、其の當り年月の禮典を繰り延べて、霞立つ春の彌生の今日の生日の足日に其の式の御祭奉仕らむと、子孫の者共忌回り清回りて大前に、神食、神酒海山川野の種々の味物を机代に豊足はして、各々も参出拜し奉仕らくを御心おも向かしみ、食諾ひ玉ひて、天皇命の大御代を手長の大御代と堅石に齋ひ奉り、子孫の者共を助け玉ひ守り玉ひて、家門を彌廣に彌高に、御末の八十續き玉ひ蔓絶ゆる事なく彌向榮に立ち榮え令め玉ひて、春秋彌遠永に御祭美はしく仕へ奉り令め玉へと神職嚴鉾中取り持ちて謹み恐しも白す、辭別けて白さく、大前にわざおきを奏で奉りて御心を慰め宇良賀し奉らくを聞食せよと白す、」

    祭詞        一族代表  中島 馨
  興亡盛衰ならざりし、當年に於て押領使として陸奥六郡を領せし、關東の武将清原氏も、成祐の代衰退の家運に抗し得ず、尾州一地方中島郡司と成り、九曜星の紋を定め、氏を中島氏と改め化育牧民の職」に在る、前後百年にして宜長に至る、宜長夙に尊皇の大義に通じ、慨世の気魄を有す、承久三年二月偶後鳥羽上皇の召に應じ、北條氏討伐の義兵を擧げ上皇の鴻圖を翼賛し奉りしが、時利あらずして、回天の大業遂に就らず、豆州配所の月に怨恨十年、畏くも後鳥羽上皇が東天を仰いで、盡きぬ怨を隠岐の小島に殘して崩御遊されし、延應元年時の執権北條泰時の赦免を得、海路我布津部浦に着し、高家乙咩小長井三郷の地頭に補され、一族郎黨を率ひ、中島城を築きし、刑部少輔宜長が不毛開發の遺業は、今も去る風雨七百年の往日に有り、静に思を當年に馳せ、我高祖宜長が回天の業に参せし誠忠は日本精神の發道にして、吾人として傾慕追憶の念禁じ難きものあり、時恰も皇紀二千六百年、國家興隆の源泉を考へ、國体の精華を惟ふの折、祖先の遺蹟を追想せば其面影恍として現前し、敬慕の念更に切なるを覺ゆ、茲に遠近の遺蘗相?胥り輯睦親善の誼を篤ふし、崇祖の誠を捧げ、正襟嚴在天の靈を迎へ謹て祭る。
     昭和十五年三月十七日
     皇紀二千六百年  會中島宜長垂統七百年
  うみのこの末の榮は畏くも遠つ御祖のみ惠そかし     小野精一
  瀧津瀬ゆ水脈遠長く流れ来て今もさやけし中島の氏    御堂琴代
  中島の中の一本根を強み彦はえ五百本立ち榮えつつ    北崎豊樹
  中島の中の大幹彦はえてねさしも枝も生ひまさりつつ   同 人
      同
  遠祖悠々七百年春 濟民經國儘酸辛 餘慶積善今猶在 家系連綿景福新
      伊豫守房直
  挺身臨戦竭芳猷 収得紛騒撫四周 想到豫公千載績 遺勳赫々照豊州
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西の林の首塚と祖霊社

中島神社写真1  西の林は本村東南端にあって、現に中島氏一族の墳墓地である。青苔滑らかな石塔が累々としている。しかし元禄を切って以前の墓はないようである。
 『宇佐郡記』によれば、伊豫守房直の首級は、庄川原に梟し、郷党に曝したのであるが、一族これを奪い取り、この西の林に埋めたとある。現に西の林 墓地の北隅に当たって、廃墟の上に墓の礎石らしきものが残存している。
「天正十七年三月三日(側面)清原眞人統次(正面)寶永三年三月三日建立(側面)」の文字が刻んである。これを建てた当時の寶永の頃は、この地が首塚であると認めたものに違いない。遺跡の泯滅せんことを恐れて、建てたものであろうが、それも碑石の石基のみである。
それから明治の初年になって、更に石社を建て房直の霊を祀ってあったが、明治四十(一九〇七)年一統の評議で、祖霊社を建立して、これにその伊豫守を祀ってあった。西の林の石社も遷して、兄弟三人合祀となった。(但し石祠もそれぞれ三人別に並んでいる)
 しかるに同村の宗顕寺内の墓地に、伊豫守の首級がある。西の林のものを改葬したのか、二様に祀ったのか、その辺のことは分からない。
『宇佐郡記』などの記事を尊重すれば、どうも二様に祀ったものと思われる。その宗顕寺内の伊豫守の碑は、台が一つで、その上に一尺四方位の偏平なる碑に、笠型の蓋を置き、中央に地藏を刻み、南側に「天正十七年」「三月三日」、背面に「中島伊豫入道」と記してある。(口絵参照)
 宗顕寺内に、中島一統の墓が沢山ある。しかし最も古いのが、寶永・元禄のものである。天正(一五七三~九二)と元禄(一六八八~一七〇四)の間は約百年である。天正以来の古い墓が連続していれば、天正の墓もその時代のものであろうと思われるけれども、元禄以降は今日まで続いているから、元禄頃に西の林から、この地に遷り、その際に天正の伊豫守の墓も建てたものであろうとは、誰でも考えることである。
 明治四十(一九〇七)年に中島一族のかぐわしく思い立ちて、祖霊社なるものを建てられた。湘たる地を卜し、神殿を建て、荘厳赫々である。
神垣につづく神の森、森かげしんしんとして、神寂渡るたたずまい、三人の御霊は安く祀られてある。
祀られる霊は子孫の栄えの護りの社である。これこそ敬神崇祖の国ぶりの、いと目出度き限りである。祀るべき先祖の明ら闡からぬものもある。祀ってくれる子孫のなき先祖もある。世の中に良き霊は良き子に祀られる。人世のれに過ぎる事はあるまい。
先祖の貽した余慶によって、栄ゆる兒孫よ、この神の神垣の下に、栄ゆる子孫よ、平和は神の心、和楽は神の教えぞ、よく先祖の遺訓を体得し、一致団結して、己が家業にいそしみ、兒孫の繁栄を計る。これが皇国への忠義で、先祖への追孝となるべき思い、無用の婆心を動かすものである。
 さて霊社へ弾正忠・壹岐守・伊豫守の三人の御魂を祀るは固より、しかるべきであるが、高家村の蒼を創いた恩人は、初代中島左衛門宜長ではないか。この宜長の霊こそ、産土の神として祀るべきかと思われる。宜長の神霊を中心に三人の御霊を配祀する、誠に報本反始の心にも合うべく思いて止まざるものである。
 弾正忠の祠には、「維時明治六年三月三日再興、世話人、中島足男・同傳次郎・同喜之助・末裔五十二戸」と刻んでいる。
 伊豫守の祠には、中島弾正忠秀直十一代後胤、明治十二年己卯二月九日、世話人、中島林兵衛建立、之中島仁左衛門・同善兵衛・同儀右衛門・同甚十郎・同文兵衛・同卯右衛門・同宅右衛門・同範造・同傳平・同銀治・同保兵衛・同良造・同林兵衛」と連名している・  しかるに中央の壹岐守の祠は小さくもあるが、中島佐次右衛門の一人の名しかない。年号も何も風化して見えない。佐次右衛門が建てたものであろうか。