草創時代
夏野「清原真人」の姓を賜る
この乱に勝利した大海人皇子は古代国家の事実上の統一者で、弘文二年(673)に大和の飛鳥の右京にかえり飛鳥浄御原宮をつくり、翌年二月に即位して第四十代天武天皇となった。
天武天皇の皇子舎人親王の子御原王、その小倉王が、桓武天皇の延暦二十三年(804 六月に上表して清原真人の姓を賜りたいと願い出て許された。
小倉王の第五子夏野は臣列に下って「清原真人」の姓を称するようになった。
「清原」は浄御原の「御」を省いたもので、現に清原の姓をそのまま名乗っている子孫もいる。
「真人」の姓は「八色の姓」の最高位で、もっとも近い皇族にかぎり授けられた。
「真人」の姓を賜った夏野は淳和天皇の天長十年(833)に右大臣に任じられ雙岡大臣と称した。
夏野が総裁になり菅原清臣(道真の祖父)・父小野篁等と令義解十巻を著し、久しく紛争していた律令の解釈が統一された。
これは夏野の文勲というべきもので、それ以来清原氏は、深養父・顕忠・元輔・清少納言と、代々文学をもって朝廷に仕え、文人歌人をもって名声を高めた。
清原武則が東北の武将の棟梁になる。
京都では摂関家藤原一門が権勢を振るい、他の諸氏は栄達が困難であったからである。
地方へ下った者は貴種として尊敬された。
夏野七世の孫清原武則の父光方もその一人であり、当時権勢をきわめた藤原氏をきらい多くの家の子、郎等を従え東北の野に下り、武則は出羽国(秋田・山形)の俘囚の長と称し、大勢力をなした。
有名な前九年の益(1051)が起こり、源頼義・義家の父子が朝命をもって阿部頼時を鳥海棚で討ったが、子の貞任が兵を率い抗戦したので頼義父子は苦戦した。
そこで頼義は清原光頼と弟武則に援軍を求めた。
光頼は決しかねていたが、武則はただちに軍勢一万人を率いて頼義を援けた。
源頼義が征討をはじめて八年になり功を奏しなかったが、武則の謀議と勇猛によって一年も経たない内に巨魁安倍貞任を厨川柵で討ち、五十四郡の民は平穏をむかえた。
武則は武功により康平六年(1063)に従五位上に叙せられ鎮守府将軍に任じられた。
鎮守府将軍とは東北にて軍功をたてた武将の栄職で武人の棟領として東北に勢力を拡大していった。
文献に見る清原氏の記事
【康平五(1062)年七月】
●源頼義の援軍要請に応じて、清原武則が一万余の兵を率いて陸奥国に向かう。 『陸奥話記』・・・出羽山北の俘囚主清原真人光頼・舎弟武則らを説きて、官軍に与力せしめんとす。光頼ら猶予して未だ決せず。将軍、常に贈るに奇珍を以てす。光頼・武則ら漸く以て許諾す。
【康平五(1062)年八月十六日】
●頼義・武則の軍を七陣に分けて押領使を定める。 『陸奥話記』・・・同十六日、諸陣の押領使を定む。清原武貞を一陣と為す。武則が子なり。橘貞頼を二人と為す。武則が甥なり、字は志万太郎。吉彦秀武を三陣となす。武則が甥にしてまた聟なり、字は荒川太郎。橘頼貞を四陣と為す。貞頼が弟なり、字は新万次郎。源頼と頼義を五陣と為す。五陣の中、また三陣に分かつ。一陣は将軍、一陣は武則真人、一陣は国内の官人らなり。吉美侯武忠を六陣と為す。字は班目四郎。清原武道を七陣と為す。字は貝沢三郎。
【康平六(1063)年二月二十七日】
●前九年合戦の論功賞が行われ、清原武則が鎮守府将軍に任ぜられる。 『百錬抄』・・・二十七日、貞任を追討せる賞を行わる。源頼義は正四位下に叙し、伊予守に任じ、一男義家は出羽守に任じ、二男義綱は左衛門尉に任ず。散位武則は一階を叙し、鎮守府将軍に任ず。
【康平六(1063)年五月】
●安倍正任が出羽の清原頼遠のもとに逃亡する。 『陸奥話記』・・・正任は初め出羽の光頼が子、字は大鳥山太郎頼遠の許に隠る。
【永保三(1083)年夏ごろ】
●清原真衡が吉彦秀武と対立して出羽に出兵するが、清原清衡・家衡は秀武に加勢する。
『奥州後三年記 上』・・・永保のころ、奥六郡がうちに清原真衡といふものあり。荒河太郎武貞が子、鎮守府将軍武則が孫なり~又秀武がもとへもゆかんとて、いくさだちすることはかりなし。
【永保三(1083)年秋ごろ】
●清原真衡が吉彦秀武を討つため再び出羽に出兵するが、清原清衡・家衡が清原真衡の館を襲撃する。 『奥州後三年記 上』・・・真衡、国司を饗応しをはりて奥へかへりて、なお本意をとげんために秀武をせめんとす~清ひら・家ひら、よせきたり。すでにたたかふ。
【永保三(1083)年秋ごろ?】
●清原真衡が急死したため、源義家が奥六郡を清衡・家衡に分け与える。 『康富記』・・・此の間、真衡、出羽に発向せる路中に病に侵されて頓死し了んぬ。この後、清衡・家衡、太守に対いて野心を存せず、死亡せる重光、逆臣たる由、これを陳ぶ。降を請うの間、太守、これを免じ許す。六郡を割分して、各三郡、充てて清衡・家衡に補せらる。
【応徳三(1086)年秋ごろ?】
●清原家衡が兄清衡を殺害しようとする。 『康富記』・・・家衡、兄清衡を讒り申すと雖も、太守、許さざるなり。つさえ清衡に抽象有るの間、家衡、清衡の館に同居せしむるの時、密かに青侍に謀り、青侍、清衡を害せんと欲す。清衡、先にこれを知り、叢中に隠れ居る処、家衡、火を放ち清衡の宿所を焼き払い、忽ちに清衡の妻子・眷属を殺害し了んぬ。
【応徳三(1086)年冬ごろ】
●陸奥守源義家が沼柵を攻めるが、飢えと寒さで苦戦する。 『康富記』・・・清衡、太守に参り、此の嘆きを訴え申すの間、自ら数千騎を率いて家衡が城沼柵に発行す。送ること数月、大雪に遇い、官軍、闘いの利を失い、飢寒に及ぶ。軍兵多く寒死し、飢死す。或いは切りて馬肉を食い、或いは太守、人を懐いて温を得せしめ蘇生せしむ。
【寛治元(1087)年夏ごろ?】
●清原武衡が家衡に加勢し、金沢柵に移る。 『奥州合戦絵詞 上』・・・武衡は、国司追帰されにけりとききて、陸奥国より勢をふるひて、出羽へこえて、家衡がもとに来ていふやう~二人あいぐして沼柵をすてて、金沢にうつりぬ。
【寛治元(1087)年秋ごろ?】
●大軍を率いた源義家が金沢柵を攻めるが、戦いは長期化する。
『奥州合戦絵詞 上』・・・国司、武衡あひくははりぬとききて、いよいよいかる事かぎりなし。
【寛治元(1087)年秋ごろ?】
●兵糧攻めにより金沢柵の城中は飢えに苦しむ。 『奥州合戦絵詞 中』・・・吉彦秀武、将軍に申様、城の中かたく守て、御方の軍、すでになづみ侍にたり~これをみて、長く城の戸をとぢて、かさねてくだる者なし。
【寛治元(1087)年11月14日】
●金沢柵が陥落し、清原武衡が斬首される。 『奥州合戦絵詞 下』・・・藤原の資道は、将軍のことに身したしき郎等なり~武衡・家衡が郎等どもの中に、むねとあるともがら四十八人がくびをきりて将軍の前にかけたり。
引用元:横手市部文化財保護課資料
成祐が尾張中島郡の郡司となる
清原氏が武将として東国に全盛をきわめたのは、武則・武貞・真衡の父子三代四十年に過ぎなかった。
真衡には子がなく、源頼義のおとし胤と称する成衡を養子とし、平維基子孫を妻とすることにした。
婚儀の祝賀のため姑夫吉彦秀武が出羽から出てきて黄金を盆に盛り、新婦に献上した。
ところが真衡は客と碁を囲んでいたので見向きもしなかった。
秀武は大いに怒って帰り、真衡の異母弟家衡や清衡を誘い兵をあげた。
源義家は鎮守府将軍として陸奥の府を治めていたが、真衝の窮状を見て援け、家衝を金沢の棚で破った。かの義家が雁行の乱れを見て伏兵の作に陥らなかったという逸話は、金沢の戦いである。
この戦いは前後三年にわたったので「後三年の役(1083)」といい、武衝・家衝は源義家によって殺された.
清原氏は内紛によって滅亡しかかったが、戦いがいったん平定すると真衝の異母弟清衝がかわって陸奥六郡の地の押領使となって、平泉に館を建て、藤原氏をもって東国を治めた。
清衝は真衝の経母の連れ子で、藤原経清の子であった。
清原氏を継ぐべき成衝は金沢の戦いで戦死し、一族が反乱を起こし国を乱したというので、その子の成祐は尾張国の中島郡司を拝命することになった。
時勢の変転により、名門清原氏は家路を降ろし、一群司になったのである。
成祐尾藤は中島の地名を取り、清原を改め中島として、九曜星を家紋に定め、梶の葉の紋を副用することにした。
成祐は清原の祖夏野から十一代目であるが、中島氏の元祖となる人である。
尾張中島郡は濃尾平野の中心で、西を木曽川が流れている。
【参考】清原性
京師清原氏 丹橋・佐原・澤・吉田・平野・朝日・斎等
出羽清原氏 岩崎・大坪・梅田・中西・西山・東・小畠・荒河
筑紫清原氏 五條・東・矢部・石島
豊後清原氏 長野・栗野・恵良・原田・原口・森・野山・山田・小田・松木
(玖珠郡に栄える)
※ 中島氏は出羽清原氏に属する。
- 尾張の土豪中島氏と中島城
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中世尾張の土豪として知られたものに、尾張一円に勢力を持った中島郡を中心舞台とした中島氏、知多郡 の荒尾氏があります。
一宮市の説明では、承久3(1221)年6月5日にこの地に宣長は辿り着き、領地を与えられ 子孫は代々中島蔵人を名乗ったということになっておりました。
宇佐に残る資料とは違っておりましたので 一宮市尾西歴史資料博物館に問い合わせました。
さっそく調べていただき、やはりこちらの資料の とおり、宣長は承久の乱で領地を没収されていることが分かったそうです。
「一宮市荻原町史(昭和34年)」
その後延応元年(1239年)に返還されたことになっているようです。
「吾妻鏡」延応元年(1239)九月二十一日の条に次の一節があります。
【廿一丁亥。尾張国住人中島左エ門尉宣長者。承久逆乱時。為官軍之由有沙汰。被収公所領。 然而当時候所中。頻依愁申之。於屋敷田畑者可布渡之旨。今日被仰付西部中務丞。】
「承久の乱(1221年)において官軍に属したため、所領を没収された宣長が、幕府に来て しきりに願いを申し出たので屋敷田畑を下げ渡すと今日発令した」といった意味だと思うのですが、 ここにはどこの領地を下げ渡したか書かれておりません。
中島宣長は高家に領地を与えられた事になっておりますが、一宮市では宣長が領地を返され、その子孫が城を構えて中島蔵人を名のったとの見解を示しております。
尾張の古史誌として最も信頼できる「張州府志」(尾張藩の編集。宝暦年間1751~63の成立)に
【中島左エ門宣長。中島村人。(中略)其後有蔵人者。住中島村。疑是其後也。】とあり、さらに全書に【中島城。在中島村。中島蔵人居之。今為田圃。】とあります。
これによると一宮市荻原町中島にある中島城の城主は中島蔵人であり、その祖先は中島左エ門尉宣長ではないかといっておりますが確かな系図は見当たらないようです。
尚、中島蔵人は嵯峨天皇の末裔ではないかとされております。この出所を調べますと、江戸時代の「尾張名所図会」(天保12年 1841)に「長島山妙興報恩禅寺当時は(中略)滅宗宗興建立にて(中略)滅宗は嵯峨天皇の御子左大臣源融公の裔孫中島蔵人の子息也。と記されている。
しかし之よりはるか昔の滅宗宗興の没後71年目の享徳2年(1453年)7月11日に、後に妙興寺住持となった無隠徳吾になる「妙興開山円光大照禅師行状」によると滅宗宗興について「尾州中島郡人。其先。嵯峨天皇第十二子河原院也。似延慶三年庚戌歳生源氏」と記していますが、中島蔵人の子孫とは断じていません。単に開山は河原院の末裔の嵯峨源氏に属する人とうたっているのみであります。
中島の地は弥生時代の二子遺跡地帯にあり、倭姫命の中島宮伝説地でもあります。奈良時代から平安時代にかけての古い廃寺跡ももあります。東2キロには尾張国府がありました。また、高家の中島と同じく地名もナカシマと古音の清音で呼ばれています。
現在尾西歴史資料博物館の宮川氏に宣長について調査をしていただいております。
もし何かご存知の方がおられましたら教えていただけないでしょうか。よろしくお願い申し上げます。【尾張 中島城址】
県道14号線・県道513号線が交差する萩原町東宮重信号のひとつ南の信号を西へ曲がり、
600mほ ど進んだ右に石碑(写真)があります。
一宮市立中島小学校の南200mのところです。
- 系譜1
中島刑部輔宣長が宇佐高家郷の地頭となる。
中島郡司成祐より五代目の孫【成祐(尾藤)ー成直(弾正忠)ー直寿(左京亮)ー定直(主税介)ー定宜(弾 正忠)ー宜長(左衛門尉】 にあたるのが中島刑部少輔宜長である。
宣長は尊王の大儀に徹した人であった。後に後鳥羽上皇が兵を挙げ北条氏 の討伐をはかって承久の乱(1221年)が起こったとき、進んで官軍に味方し、院宣をいただいている。
だが、官軍は各所で敗戦し三皇三宮は遠島され、宜長の支配する中島郡の領地はことごとく 没収され宜長は伊豆に遠流に処せられた。
配所で時節を待つこと10年、宜長の母方の祖父走陽山浄蓮僧正 が親しい北条泰時に赦免の嘆願をしたところ特に許され、延応元年(1239年)9月21日 に宇佐郡高家郷地頭職に補せられた。
御教書を持って同年12月28日一族郎党を従え 布津部浦に上陸し、高家郷に居城を築き中島城と称し、高家・乙咩・小長井の三ヶ村を領地とした。
宜長は建長5年(1253年)8月9日に没した。
また、「中島家に関する由緒書き」によると 「刑部少輔直興が承久の変に官軍に馳せ加わり、大将大夫惟信が逃亡し、 官軍はために敗北、中島直興は豊前国に下着、宇佐大宮司公仲を頼り、 宇佐郡高家郷に徒らに居住して、宇佐宮封戸地頭職に補せられた」とある。